6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日

六月二十日。梅雨のただなかの、紫陽花が雨に濡れて重たく頭を垂れるころです。昭和四十八年(一九七三年)のこの日、東京・渋谷で一つの大きな建物が動きはじめました。NHKホール。毎年大みそかの夜、茶の間に流れ込んでくる、あの『紅白歌合戦』の舞台です。 先に正直なことを書いておきます。このとき私は四歳。開館のニュースなど、まるで覚えていません。覚えているはずもないのです。けれど、だからこそ書きたいことがあります。あの建物は、私が物心ついたときにはもう、子供時代の「向こう側」に、ずっと立っていました。テレビという窓の、その奥に。 茶の間の「向こう側」にあった大みそか 子供のころ、一年でいちばん夜ふかしが許される日が大みそかでした。紅白歌合戦。あの幕が上がると、家じゅうの空気がどこか改まったものです。 紅白がこのNHKホールから生中継されるようになったのは、ちょうど私が生まれて間もない昭和四十八年、第二十四回からでした。それ以前は、内幸町のスタジオや日本劇場、東京宝塚劇場などを転々としていたのだといいます。私が物心つくころには、紅白は「渋谷の、あの大きな舞台」にすっかり腰を落ち着けていた。つまり私の世代は、生まれたときから「紅白といえばNHKホール」が当たり前だった、最初の世代ということになります。 思えば、あのころの紅白は、文字どおり日本じゅうが同じ時間に同じ画面を見つめる夜でした。少しさかのぼった昭和三十年代の終わりには、視聴率が八割を超えた年もあったといいます。テレビがまだ一家に一台、茶の間の真ん中にどっしりと据えられていた時代。その何千万という視線がいっせいに集まる中心に、渋谷のあのホールがありました。けれど私にとってそれは、あくまでブラウン管の「向こう側」。きらびやかで、遠くて、手の届かない場所でした。 渋谷・神南に建った「二代目」 このNHKホール、実は「二代目」です。初代は内幸町のNHK東京放送会館のなかにあり、昭和三十年(一九五五年)に完成したものでした。けれど客席はわずか六百六十席ほど。紅白のような大がかりな番組を収めるには、あまりに手狭だったのです。 昭和四十年代に入り、NHKは放送の拠点を渋谷区神南へと移していきます。世に言うNHK放送センターです。その関連施設として、昭和四十七年(一九七二年)十一月に新しいホールが完成し、翌昭和四十八年六月二十日から運用が始まりました。設計は日建設計。客席は三千席を優に超える、当時としては国内屈指の大ホールでした。NHK交響楽団、いわゆるN響の本拠地でもあります。紅白だけでなく、『NHKのど自慢』も、N響の定期演奏会も、数えきれないほどの公開番組が、この同じ舞台から全国の茶の間へと届けられてきました。 「ここが、あのNHKホールか」 そのテレビの「向こう側」に、私が初めて足を踏み入れたのは、三十代の、親としての一日でした。そして連れて行ってくれたのは、ほかでもない、私の息子です。 長男が保育園のころ、『おかあさんといっしょ』に夢中でした。何かと用事を片づけたいとき、ファミリーコンサートのビデオを見せておく――その間に、こちらは家のことを済ませる。あの番組には、ずいぶんとお世話になったものです。一度でいいから、本物のファミリーコンサートに連れて行ってやりたい。そう思って、何度も何度も観覧の抽選に応募しました。 そして、ある日。なんと、その抽選に当選したのです。たしか平成十四年(二〇〇二年)ごろのことでした。会場の名前を見て、私は思わず声をあげました。NHKホール。あの、大みそかにテレビでしか見たことのなかった、渋谷の、あの大きな舞台。 当日、客席に座って、私はしみじみと天井を見上げました。「ここが、あのNHKホールかー」。子供のころ、ブラウン管の向こうに遠くきらめいていたあの場所に、私はいま、自分の息子と並んで座っている。番組の主役はもちろん子供たちです。でも、あの日いちばん胸を熱くしていたのは、案外、三十代の私のほうだったかもしれません。テレビの「向こう側」が、ようやく自分の足もとと地続きになった瞬間でした。 あの日、息子と並んで見上げた舞台の空気は、いまも映像のなかに残っています。おかあさんといっしょのファミリーコンサートは、NHKホールで収録されたものがDVDになっていて、観るたびに、あの当選通知が届いた日のうれしさまで、ふっとよみがえってきます。 NHKおかあさんといっしょ ファミリーコンサート(NHKホール収録)あの日、息子と見上げた舞台。ファミリーコンサートをノーカット収録 Amazonで見る › 十五年後の同じ日に ── オレンジと、バナナと 六月二十日には、もう一つ、私の暮らしに地味に効いてきた出来事があります。昭和六十三年(一九八八年)のこの日――NHKホール開館からちょうど十五年後――日米の貿易交渉がまとまり、牛肉とオレンジの輸入自由化が決まりました。三年後の平成三年(一九九一年)から、それまで設けていた輸入の上限を撤廃する、という合意です。 そもそも日米の貿易摩擦は、私が生まれるより前、昭和三十年代の繊維製品から始まっていました。やがて火種は鉄鋼へ、カラーテレビへ、自動車へと移り、そしてついに、牛肉とオレンジという、食卓の問題にまでたどり着いたのです。米側の狙いは、ふくらみ続ける対日貿易赤字を、農産物の輸出で少しでも埋めること。十九歳の私は、その交渉の重さなど、まだよくわかってはいませんでしたが。 正直に言うと、私には子供のころ「オレンジ」を食べた記憶が、ほとんどありません。私のなかでオレンジとは、ほぼ「みかん」のことでした(笑)。冬のこたつに積まれた、あの手で剝けるみかん。皮の厚い、香りの強い舶来のオレンジが当たり前に店先に並ぶようになったのは、思えば、この自由化のあとのことだったのでしょう。 いっぽうバナナは、私にとってずっと身近な存在でした。遠足の前日には決まって誰かが、「先生、おやつにバナナは含まれますか?」と真顔で質問しては、どっと笑いをとる。それくらい、バナナは子供の世界にすっかり溶けこんでいたのです。 ところが、少し調べてみて驚きました。そのバナナも、ほんの少し前までは「高級品」だったというのです。戦後の日本は外貨が乏しく、外国からの輸入は厳しく制限されていました。バナナも例外ではなく、値段が高く、庶民が気軽に買えない。病気のときや、お見舞いの品にする――そんな、特別な果物だったといいます。おもしろいのは、その「特別」だった時代から、遠足とバナナはすでに固く結びついていたことです。気軽には買えないからこそ、遠足の日に一本か二本だけ持たせてもらう。それが子供にとって、何よりの楽しみだった。昭和三十年ごろには、一房が今でいえば数千円もしたのだとか。私たちが笑いのネタにしていたあの「バナナは含まれますか」という問いの奥には、実は、そんな時代の名残がひそんでいたのかもしれません。 大きな転機は昭和三十八年(一九六三年)、バナナの輸入自由化でした。やがてフィリピン産が大量に出回り、冷蔵輸送やスーパーマーケットの普及も重なって、昭和五十年代には「普通に買える果物」になっていった。私が生まれる六年前に、バナナはもう「特別」を卒業していたわけです。 つまり、自由化の波は二度あったのです。私が生まれる前の、バナナ。そして十九歳のときの、牛肉とオレンジ。私の暮らしは、ちょうどその二つの波のあいだに、すっぽりと収まっていたことになります。 令和の渋谷で、いま あれから半世紀。NHKホールは今も渋谷・神南に立っています。途中、耐震補強などの工事でしばらく休館し、令和三年(二〇二一年)の紅白だけは東京国際フォーラムで行われたりもしましたが、また元の舞台に戻ってきました。あの日、息子と並んで見上げた天井も、きっと変わらずそこにあるはずです。 食卓のほうは、すっかり様変わりしました。オレンジも牛肉も、もう「特別」ではありません。バナナにいたっては、平成十六年(二〇〇四年)、ついに消費量でみかんを抜いて、日本の果物の一位になったのだそうです。オレンジを「みかん」だと思っていた子供だった私には、なんだか出来すぎた話のように聞こえます。 変わらずそこにあり続けたホールと、「特別」を「当たり前」に変えていった食べものたち。同じ六月二十日に、その両方の物語が静かに始まっていた。そして私はといえば、テレビの向こうにあったあの舞台に、自分の息子のおかげで、ようやくたどり着くことができたのです。変わるものと、変わらないもの。その両方を抱きしめながら、私たちは少しずつ年を重ねていくのでしょう。 あなたが、テレビでしか見たことのなかった場所に初めて実際に立ったのは、どこでしたか。そして、子供のころ「特別」だった食べものは、何でしたか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

June 20, 2026

「株主」にはなれた。でも「投資家」にはなれなかった ── 高配当株投資、爆速参入・爆速撤退の記録

お金と僕の12年戦争・第8話 ― 高配当株投資、爆速参入・爆速撤退の記録 すべては「リベ大」から始まった 私が株式投資という世界に足を踏み入れたきっかけ。それは、両学長の「リベ大」YouTubeでした。第3話で書いたとおり、妻からプレゼントされた一冊『お金の大学』をきっかけにリベ大の動画を見るようになった私は、そこからお金の世界へとぐいぐい引き込まれていきました。 2020年頃のリベ大では、「FIRE」の話題や、当時の株式市場の状況を反映してか「高配当株投資」の話題がとても盛んだったように思います。とはいえ、聞き始めの頃は正直、何を話しているのかさっぱり理解できませんでした。それでも学長が「聞いていたら、そのうち何となくわかるようになってくるよー」と言うので、その言葉を信じて、過去の動画を隅から隅まで見まくったのです(笑)。 【改訂版】本当の自由を手に入れる お金の大学両@リベ大学長/朝日新聞出版。私のすべての出発点になった一冊 Amazonで見る › 「FIRE」という生き方との衝撃の出会い 見続けるうちに、私の中で一番の衝撃だったのは——「FIRE」という生き方が、この世に実在するということ。そして「そんな生き方を選んでもいいんだ」ということでした。 もっとも、私の現実はというと、子ども5人の大家族、しかも住宅ローンあり。FIREという生き方が自分に当てはまるとは、正直まったく思えませんでした。それでもこの出会いは、「自分が知らなかったこと」「間違って思い込んでいたこと」が世の中にはまだまだたくさんありそうだ——そう私に気づかせてくれたのです。 そんな中で、私が強烈に憧れてしまった言葉があります。「不労所得」。なんとも魅惑的な響きではありませんか。 爆速で整えた「高配当株投資」の準備 憧れてしまったら、もう止まりません。リベ大を参考に、楽天銀行・楽天証券を開設し、NISAの手続きも完了。「高配当株投資」を始める準備を、猛スピードで整えてしまいました。 ——実は私、とにかく動き出すのが早いんです。そのおかげで失敗することも、まあまああるのですが(苦笑)。 当時の学長は、「学長が今月から高配当株投資を始めるなら」というコンテンツを、毎月オープンに発信してくれていました(現在はオンラインコミュニティ『リベシティ』の中での発信になっています)。しかもそこでは、実際の企業名を数十社あげ、それぞれ「いくらずつ買うか」まで具体的に示してくれていたのです。 私はそれにすぐ食いつきました。そして総額でおよそ450万円分を、一気に購入してスタートを切ったのです。 30銘柄の「株主」になれた喜び 一社一社、株を買い進めていく作業。最初はドキドキで、緊張しました。それでも、ようやく30社ほどの株を手にできたときには、なんとも言えない喜びが湧いてきたんです。 だって、私はもう「株主」ですからね。 それまで私にとって株とは、「お金持ちがやること」でした。でも実際にやってみて気づいたのです。株とは「お金持ちになるためにやること」でもあったんだ、と。 あっけない「撤退」——一度も配当金を受け取れずに ところが。意気揚々と始めた高配当株投資は、あっけなく失敗に終わりました。 原因は、はっきりしています。「高配当株投資とはどういう投資なのか」を本当の意味で理解しないまま始めてしまったこと。これに尽きます。 当たり前の話ですが、私は毎日毎日、持っている株の株価の変動が気になって気になって、仕方がない状態になってしまったのです。 私の本業は、路線バスの運転手です。お客様の命を預かるこの仕事に、株価の上下が頭をよぎるような精神状態で臨むわけにはいきません。「このままでは本業に支障をきたしかねない」——そう判断した私は、ただの一度も「配当金」を受け取ることなく、すべての株を売却しました。あえなく『撤退』です。 結局のところ、私がやっていたのは「高配当株投資」ではなく、ただの「短期トレード」でしかなかったわけですね(笑)。 せめてもの幸いは、20万円ほどの利益が出たこと——だったでしょうか。いやでも、これはやっぱり「失敗」です。 そして「王道」インデックス投資へ この撤退をきっかけに、私は現在も続けている「王道」のインデックス投資の道を歩み始めることになりました。日々の値動きに一喜一憂せず、長期でコツコツ積み立てていく——今思えば、あの高配当株での大失敗があったからこそ、自分に合う投資のスタイルにたどり着けたのかもしれません。 「日々眺めなくていい」というこの考え方を、私のように値動きに振り回されてしまう人間に教えてくれたのが、次の一冊でした。タイトルがもう、すべてを言い表しています。 【全面改訂 第3版】ほったらかし投資術山崎元・水瀬ケンイチ/朝日新書。インデックス投資の「王道」を最短で教えてくれる定番 Amazonで見る › ▼ 私の場合の、ふたつの投資スタイル 高配当株投資(当時の私) インデックス投資(現在) 買い方 数十社を自分で選び、一気に約450万円 1本の投資信託を、毎月コツコツ積立 日々やること 毎日、株価が気になって仕方ない 基本ほったらかし。見なくていい 本業への影響 運転に支障が出かねないと判断 気にならず、仕事に集中できる 結果 配当金ゼロのまま撤退(+20万円) 今も継続中 おまけ——あのとき売らずに持ち続けていたら 最後に、ちょっと笑える(そして少し悔しい)後日談を。 最近、当時買っていた高配当株の銘柄を、Yahoo!ファイナンスに入力して管理していたデータが、ひょっこり出てきたんです。せっかくなので、株式分割した銘柄を調整したりしながら、今いくらになっているのか確かめてみました。 すると——なんと株価が軒並み爆上がりしていて、含み益はおよそ600万円。 とりわけ効いていたのが、銀行株と商社株でした。当時は「どうせ上がらない」「万年割安株」などと揶揄されることもあった顔ぶれです。正直なところ、私自身も買ったはいいものの、さほど期待はしていなかった銘柄たち。それが数年後には株価を大きく伸ばし、今の水準にまで化けていたのです。 ...

June 19, 2026

6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

June 19, 2026

6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う

六月の半ば、梅雨の重たい空をながめながら、ふと握り飯のことを考えました。きょう六月十八日は「おにぎりの日」。なんとも素朴で、いい響きの記念日です。 由来を調べてみると、これがなかなか面白いのです。石川県の旧鹿西(ろくせい)町——いまの中能登町——の「ろく」をとって、六月。そして毎月十八日は「米食の日」。「米」という字をばらすと「十」と「八」になるから、十八日。その二つを掛け合わせて、六月十八日。語呂合わせのようでいて、ちゃんと米への敬意がこもった日付なのですね。 そしてこの記念日には、もう一つ、はるかな裏付けがあります。後でゆっくり書きますが、昭和の終わりに、この町から「日本でいちばん古いおにぎり」が出てきたのです。 梅雨どきの、お弁当の記憶 おにぎりと聞いて、私の胸にまず浮かぶのは、歴史でも記念日でもありません。母の手です。 学童野球、中学野球、高校野球と、私はずっと白球を追いかけてきました。だから母が握ってくれたおにぎりは、ごく当たり前に、いつもそこにある存在でした。 具には、ずいぶんわがままなリクエストをしたものです。鮭はもちろん定番。けれど私のいちばんのお気に入りは、なんと焼肉を入れてもらったおにぎりでした。玉子焼き、ウインナーソーセージなんてのも頼みました。母は「そんなの入れて、大丈夫なの?」と苦笑いしながら、それでも握ってくれたのです。 そうそう、白状すると——あの頃は素手でおにぎりを握るのが普通でした。いまの衛生観念からすれば、素手はちょっと考えられないかもしれませんね(笑)。だからでしょうか、母のおにぎりは平気なのに、父が握ったおにぎりは、なんとなく敬遠していました。ごめん、父さん(笑)。 あの頃、おにぎりはごちそうではありませんでした。けれど、ただの白い飯でもなかった。きちんと手のひらで握られて、塩がきいて、海苔が巻かれている。それだけで、あれは「だれかが私のために用意してくれたもの」になっていたのだと思います。冷めても食べられて、こぼさず手で持てて、しかも腹にたまる。子どもにとって、これほど頼もしい食べ物もありませんでした。 野球に明け暮れた中学・高校のころにも、おにぎりはいつもかたわらにありました。 とりわけ高校のころは、朝、お弁当とは別に、おにぎりを四個ほど用意してもらっていました。朝練のある日はとにかく腹が空くのです。昼まではとても我慢できない。それで、授業の合間にそのおにぎりを頬張っていました。いまでいう「早弁」ですね。育ちざかりに部活が重なれば、おにぎりの四個くらい、あっという間でした。 おにぎりは、千年を超えて握られてきた さて、ここからは少しだけ時間をさかのぼってみます。おにぎりという食べ物が、どれほど古くから私たちのそばにあったか。これがちょっと、気が遠くなる話なのです。 そもそも、米を握って食べるという習慣は、文字の記録にもずいぶん古くから残っています。奈良時代に各地で編まれた『風土記』には、握り飯を指すとされる「握飯(にぎりいい)」という言葉がすでに見えるのです。茶碗も箸もいらず、ただ手で握る。これほど原初的な食べ方が、千年以上ものあいだ受け継がれてきたのですね。 いまのおにぎりの直接の祖先とされるのは、平安時代の「屯食(とんじき)」という食べ物です。蒸したもち米を、大きな楕円形に握り固めたもので、一合半ほどもあったといいます。宮中や貴族の屋敷で催しがあったとき、立ち働く人々に「ご苦労さま」と配られた——そんな食べ物だったと伝えられています。千年も前から、人は米を握って、誰かに手渡していたわけです。 握り飯が、もち米からいまのうるち米に替わっていくのは、鎌倉時代の末ごろ。やがて戦国の世になると、おにぎりは武士の兵糧として欠かせないものになりました。中に梅干しを入れたのは、味のためだけでなく、傷みを防ぐ知恵でもあったのでしょう。腰にぶら下げて戦場を駆ける、携帯食としてのおにぎり。皿もいらず、手も汚さず、握ればそのまま食べられる。戦に勝つも負けるも、まずは腹が満ちていなければ始まりません。握り飯は、いわば戦国の兵士たちの命綱でもあったのです。考えてみれば、ずいぶん完成された発明です。 そして江戸時代。米が安定して採れるようになると、おにぎりはようやく庶民のものになりました。畑仕事の合間に、旅の途中に、行楽の弁当に。さらに明治に入ると、握り飯は駅にも進出します。明治十八年(一八八五年)、栃木県の宇都宮駅で売り出されたとされる日本で最初の駅弁は、梅干し入りのおにぎり二つにたくあんを添え、竹の皮で包んだだけの、実に簡素なものだったそうです。汽車に揺られながら、竹の皮を開いておにぎりを頬張る。その情景を想像すると、なんだか旅に出たくなります。 海苔を巻く、という発明 いまでこそ、おにぎりといえば黒い海苔が当たり前ですが、あれが広まったのは案外あとのことです。 四角い板状の海苔——いわゆる「浅草海苔」が江戸の市場に出回るようになったのは、元禄のころ。十七世紀の終わりです。一説には、これをきっかけに海苔を巻いたおにぎりが生まれたといわれています。もっとも、幕末に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という書物には海苔を巻くという記述が見当たらず、じつのところ諸説あるようです。それでも、パリッとした海苔と握りたての飯が出会ったことが、おにぎりをもう一段おいしくしたのは間違いありません。 ついでに、長年の素朴な疑問にも触れておきましょう。「おにぎり」と「おむすび」は違うのか。これも諸説ありますが、結局のところ同じものを指す、というのが今の共通の理解だそうです。形による呼び分け説、地域による違い説——いろいろ言われますが、要は呼び方の好みなのですね。三角の形が主流なのは、神さまの宿る山をかたどったから、という説まであるそうで、たかが握り飯と侮れません。そういえば「むすび」という言葉じたい、ものを生み出す力をあらわす古い言葉「産霊(むすひ)」に通じる、という話も聞いたことがあります。真偽はともかく、昔の人は握り飯に、ただの腹ごしらえ以上の何かを感じていたのかもしれません。 ちなみに、家で握るおにぎりも、海苔ひとつで驚くほど変わります。有明海産の全型海苔は、香りもパリッと感も格別。握りたての飯に巻いた瞬間の、あのいい匂いは、安いだけの海苔ではなかなか出ません。我が家も、海苔だけは少しいいものを切らさないようにしています。 マルサンのり 有明海産 焼き海苔 全型50枚おにぎりにも手巻きにも。香りとパリッと感が違う有明海産 Amazonで見る › 弥生のおにぎりと、コンビニのおにぎり ここで、冒頭の「おにぎりの日」の由来に戻ります。 昭和六十二年(一九八七年)、石川県の旧鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から、黒い炭のかたまりが見つかりました。調べてみると、それは弥生時代中期——およそ二千年前——の、蒸して焼いた跡のある米のかたまり。「チマキ状炭化米塊」と名づけられた、日本でいちばん古いおにぎりの仲間でした。私が十八歳の年のことです。二千年前の誰かが握った米のかたまりが、令和のいまも記念日として残っている。気の遠くなるような話ですが、それだけ握り飯という営みが古くて、変わらないということなのでしょう。 そして不思議なことに、その同じ昭和という時代に、おにぎりはまったく新しい姿でも私たちの前に現れました。コンビニのおにぎりです。昭和五十年代、セブン-イレブンが店先でおにぎりを売り始めると、やがて海苔とご飯を分けておき、食べる直前にパリッと巻ける包装の工夫まで生まれました。家で握るものだったおにぎりが、二十四時間いつでも買えるものになっていく。ツナマヨネーズという、それまでの常識になかった具が登場したのも昭和五十八年(一九八三年)のことだそうです。当時の私には、海苔がしんなりしない包装の仕掛けが、ちょっとした発明のように思えたものでした。 二千年前の弥生のおにぎりと、昭和の終わりのコンビニおにぎり。同じ六月十八日が、その両方を抱えている。これも、おにぎりという食べ物のふところの深さなのだと思います。 令和の食卓で いま、おにぎりは「ONIGIRI」と書かれて、海の向こうでも人気だと聞きます。専門店には行列ができ、外国から来た人が嬉しそうに頬張っている。あの素朴な握り飯が、世界の食べ物になっていく。昭和の子どもだった私には、なんともこそばゆい光景です。 それでいて、おにぎりはいちばん大事なところで、ちっとも変わっていません。大きな地震や災害があるたびに、炊き出しのおにぎりが配られる。冷たい握り飯を両手で受け取って、ほっと息をつく。あの「だれかが私のために握ってくれた」という手のぬくもりは、千年前の屯食からまっすぐ、今日まで続いているのですね。 そして、いま握る側になったのは、ほかでもない私自身です。父親になった私も、子どもたちのためにおにぎりを握ります。とくに週末は、それぞれが自分の野球に持っていくものですから、八個、十個と握ることになる。これがなかなかの重労働で——握りながら、ふと思うのです。あの朝、四個のおにぎりを当たり前のように用意してくれた母も、こうして黙々と手を動かしていたのだなと。「そんなの入れて大丈夫なの?」とこぼしながら焼肉を詰めてくれた、あの苦笑いの意味が、いまになって少しわかる気がするのです。 ついでに白状すると、私のような不器用な父親には、おにぎり型という強い味方があります。ご飯を詰めて、ギュッと押すだけ。形も大きさもそろうし、何より手が熱くない。週末に八個も十個も握るとなれば、これがあるだけで、ずいぶん楽になります。母の時代にこれがあったら、あの苦笑いも少しは減っていたかもしれません(笑)。 おにぎりメーカー 三角 押し型(6個同時)ご飯を詰めて押すだけ。大量に握る週末の強い味方 Amazonで見る › あなたにとっての「忘れられないおにぎり」は、どんな一個でしょうか。母の手の梅干しか、遠足の日の鮭か、それとも部活の帰りに買ったコンビニの一個か。よかったら、コメントで聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年(一九六五年)から昭和六十四年(一九八九年)までの出来事を、当時を生きた子どもの目線でひとつずつ綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏 | 次の記事:6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった ▶ ...

June 18, 2026

6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年

六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。 同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。 本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年(一九七八年)にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。 私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。 正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。 ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生 さて、ここからが本題です。 あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。 ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。 その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。 いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。 太平洋を越えた、中古のインベーダー 孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。 置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。 もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。 そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。 結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。 事実関係を、少し整理しておきます この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝(大下英治氏による一連の著作)にたどりつきます。 このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。 孫正義 起業の若き獅子大下英治/講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝 Amazonで見る › もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。 そして青年は、日本へ帰る アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年(一九八一年)九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。 令和のいま、あらためて思うこと 葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。 しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。 私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。 その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年(二〇二六年)六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。 孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。 みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた | 次の記事:6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏 ▶ ...

June 16, 2026

6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた

六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。 昭和五十三年(一九七八年)の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。 きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。 イトーヨーカドーの、踊り場の一台 記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。 イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。 当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。 あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤(あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました)。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。 いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。 百円玉が、日本から消えた夏 私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。 それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。 『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。 そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合(バグ)だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張(名古屋)〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。 三十円、十円。ようやく私の番が来た さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。 世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。 そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。 もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。 背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。 令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない 時代は変わりました。 いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。 それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。 欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。 現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます(笑)。 考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。 そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。 スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switchタイトー/1978年のオリジナルから歴代作品まで収録 Amazonで見る › あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。 この「昭和の今日は何があった日?」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた | 次の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 ▶

June 16, 2026

6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた

六月十五日。梅雨の晴れ間の、湿った緑の匂いがする季節です。きょうは何の日かと調べてみて、思わず手が止まりました。昭和六十年(一九八五年)のこの日、東京・吉祥寺の小さな貸しビルの一室で、株式会社スタジオジブリが設立されたのだそうです。 トトロの、魔女の宅急便の、あのジブリです。いまや日本中の、いや世界中の子どもたちが知っているあの名前が、産声を上げたのが四十一年前のきょう。そして当時十六歳、高校一年生だった私は、そんなことが起きていたとは、まったく知りませんでした。 昭和六十年六月、十六歳の私 昭和六十年の六月といえば、私は高校に入学して二か月あまり。野球部の一年生です。朝練に始まり、授業中は眠気と戦い、放課後は日が暮れるまで白球を追いかけ、玉のような汗をかいて家に帰る。そんな毎日でした。夏の大会を前に、先輩たちの空気がぴりぴりと張り詰めていく、ちょうどそんな頃です。 だから正直に白状すると、この日の私の記憶に「ジブリ」の文字はかけらもありません。それもそのはずで、当時はまだ世の中の誰も、その名前を知らなかったのです。第一作の公開は翌年のこと。設立の日のジブリは、看板も実績もない、生まれたての小さな会社にすぎませんでした。 それに正直なところ、高校生になった私が映画館でお金を払って観ていたのは、ジブリのような作品ではありませんでした。『ビー・バップ・ハイスクール』に『スケバン刑事』。つまり、ばりばりのツッパリ青春もののほうです(笑)。ヒロシとトオルの喧嘩に痺れ、スケバンのアクションに見入る。野球部帰りの十六、七歳の私には、腐海や王蟲の壮大な世界より、不良少年たちのどたばたのほうが、よほど自分たちの放課後に近く感じられたのです。だから設立されたばかりのジブリのことなど、当時の私の視界には、これっぽっちも入っていませんでした。 でも、私たちはとっくに出会っていた ジブリという名前は知らなくても、実は私たちの世代は、その作り手たちの作品の中で育っていました。 スタジオの中心となる宮崎駿と高畑勲。この二人は、ジブリ設立のずっと前から、テレビの中にいたのです。昭和四十九年、私が五歳のときに放送された『アルプスの少女ハイジ』。あの作品の演出が高畑勲で、画面構成として支えていたのが宮崎駿でした。昭和五十三年、小学三年生のときにNHKで放送された『未来少年コナン』は宮崎駿の初監督作。そして昭和五十四年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』も、宮崎駿の映画初監督作品です。 つまり、夕方のテレビの前に座っていた昭和の子どもたちは、誰に教わるでもなく、のちのジブリの味を舌で覚えていたわけです。ハイジがブランコのように大きく揺れるあのオープニング。コナンが足の指で塔の壁にぶら下がる、あのありえないけれど信じてしまう動き。あれが全部、同じ人たちの手から生まれていたのだと知るのは、私の場合、ずいぶん大人になってからのことでした。 吉祥寺のワンフロアから始まった スタジオジブリ誕生の直接のきっかけは、昭和五十九年三月に公開された『風の谷のナウシカ』でした。私が中学三年に上がる、ちょうどその春のことです。腐海と王蟲の世界を描いたあの映画が大きな評判を呼び、これを受けて出版社の徳間書店が出資し、制作会社トップクラフトを母体とする新しいスタジオが作られた。それが昭和六十年六月十五日のことです。 ですから厳密にいうと、『風の谷のナウシカ』はジブリ設立より前の作品で、ジブリ製ではありません。けれど再放送のときには冒頭にジブリのロゴが付きますし、公式の歴史でも事実上の第一作のように扱われています。会社よりも先に、作品のほうが生まれていた。ジブリとは、そういう順序で始まったスタジオなのです。 「ジブリ」という名前は、サハラ砂漠に吹く熱風のことで、第二次大戦中のイタリアの偵察機の名前でもあったそうです。命名したのは、無類の飛行機好きで知られる宮崎駿。「日本のアニメーション界に熱風を巻き起こそう」という思いを込めたといいます。ちなみに本来の発音は「ギブリ」のほうが近いそうで、つまり世界一有名なあのスタジオ名は、読み間違いから生まれたことになります。なんだか、ほっとする話ではありませんか。 驚くのは、その所帯の小ささです。場所は吉祥寺駅近くの貸しビルのワンフロア。しかも設立からしばらくの間は、正社員を雇わなかったといいます。映画の興行は水物だから、いつでも畳めるように、作品ごとに七十人ほどのスタッフを集め、完成したら解散する。そんな方式だったのだそうです。 のちに国民的どころか世界的な存在になるスタジオが、「いつ終わってもおかしくない」覚悟の上に建てられた仮設小屋のようなものだったとは。何が大きく育つかなんて、その瞬間には誰にも分からないものなのですね。 そして翌昭和六十一年八月、ジブリ第一作『天空の城ラピュタ』が公開されます。さらに昭和六十三年四月には『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が、なんと二本立てで同時公開。いま考えると信じられないような豪華な、そして観終わったあとの心の置きどころに困る組み合わせですが、これも昭和の出来事なのです。トトロも火垂るの墓も、ぎりぎり「昭和の映画」なのですね。 五人の子どもたちと、ジブリと 考えてみると、ジブリの映画が「国民的」になっていった道のりには、映画館だけでなく、お茶の間のテレビとビデオデッキの存在が大きかったように思います。金曜の夜にテレビでジブリ作品が放映されると、翌日の学校や職場でその話になる。録画したビデオを、子どもが擦り切れるほど繰り返し観る。劇場公開のときは静かだった『となりのトトロ』が、やがて誰もが知る存在になっていったのも、そうやって一家のテレビの前で何度も再生されたからこそでしょう。映画というより、家族の暮らしの一部。ジブリ作品には、そういう染み込み方をする力がありました。 私自身がジブリ作品ときちんと向き合うことになるのも、ずっとあとのことです。我が家には五人の子どもがいます。子育ての日々の中に、ジブリの映画はいつも当たり前のようにありました。 そして、我が家の子どもたちは、揃ってジブリ映画が大好きでした。テレビで放映されればもちろん一家でかじりつき、新作が劇場にかかれば、これは必ず観に行く。それが我が家の決まりごとのようになっていました。かつて腐海より不良少年に夢中だった父親が、いつのまにか子どもたちに連れられて映画館のジブリ作品の前に座っている。人生というのは、おかしなところに連れていってくれるものです。 高校球児だった私が汗を流していたあの六月に、吉祥寺の小さな部屋で生まれた会社が、めぐりめぐって我が子たちの子ども時代を彩ることになる。十六歳の私に教えてあげたら、きっとぽかんとするでしょう。お前の子どもは五人だぞ、と教えたら、もっとぽかんとするでしょうが。 おまけ──きょうは千葉県民の日 ところで六月十五日は「千葉県民の日」でもあります。制定されたのは昭和五十九年。県の人口が五百万人を突破したのを記念して定められたもので、日付は明治六年のこの日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生したことに由来するそうです。 葛飾の子どもだった私にとって、千葉は江戸川の向こう側の世界でした。そして恥ずかしながら、私は長いあいだ、とんでもない勘違いをしていました。「千葉県民の日は、千葉県民ならディズニーランドにタダで入れる」と、本気で思い込んでいたのです(笑)。どこでそんな話を仕入れたのか、いまとなっては分かりません。調べてみると、そんな事実は過去にも一度もなかったようです。県民の日にディズニーが無料になる──いかにもありそうで、まことしやかに信じてしまう。そういう「県民の日伝説」のようなものが、あの頃あちこちにあった気がします。 千葉県民の日には、県内の公立学校が休みになり、施設の入場が無料や割引になるところもあるとか。学校が休みになる記念日が県ごとにあるなんて、昭和の東京の子どもは知りませんでした。ちょっとうらやましい話です。 結びに 何かが始まった日というのは、たいてい静かなものです。昭和六十年六月十五日も、テレビが速報を流したわけでも、教室で話題になったわけでもない。けれどあの日、確かに何かが始まっていて、それは何十年もかけて、私たちの暮らしの中に深く根を下ろしました。 我が家で、子どもたちが擦り切れるほど繰り返し観た一本は、やはり『となりのトトロ』でした。昭和六十三年公開の、ぎりぎり「昭和の映画」。今では美しい高画質で、いつでも家族そろって、あの森の風に会いに行けます。 となりのトトロ [Blu-ray]スタジオジブリ/宮崎駿監督。昭和63年公開の不朽の名作 Amazonで見る › みなさんにとって、いちばん思い出深いジブリ作品は何ですか。誰と、どこで観た映画でしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 | 次の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた ▶

June 15, 2026

6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入

六月も半ばになると、教室の窓の外はもう夏の匂いがしていました。昭和五十九年(一九八四年)のきょう六月十四日。中学三年生、十五歳だった私たちの世界で、いちばん熱かったものは何かと聞かれたら、私は迷わずこう答えます。プロレスです。 この日の夜、東京・蔵前国技館で行われた第二回IWGP優勝戦、アントニオ猪木対ハルク・ホーガン。昭和のプロレス史に「蔵前暴動」として刻まれることになる、あの夜の話をさせてください。 金曜八時、テレビの前の私 当時の私は、毎週欠かさずプロレスを見ていました。金曜夜八時、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』。野球部員でしたから、昼間はボールを追いかけて、夜はテレビの前でリングに釘付けになる。そんな中学生でした。 金曜八時といえば、裏では『太陽にほえろ!』が放送されていた激戦の時間帯です。チャンネルをどちらに合わせるか。それは昭和の茶の間における、ひとつの政治問題でもありました。そして画面の中では、古舘伊知郎アナウンサーの実況が炸裂している。「闘いのワンダーランド」「燃える闘魂」──次から次へと繰り出される言葉の砲弾が、リングの上の攻防を何倍にも大きく見せてくれました。プロレスは目で見るだけのものではなく、耳で聴くものでもあったのです。 夢中になった入り口は、初代タイガーマスクです。佐山聡さんがマスクの下にいた、あのタイガーマスク。ダイナマイト・キッドとの空中戦、小林邦昭との抗争。四次元殺法という言葉がぴったりの、見たこともない動きの連続に、テレビの前で本当にワクワクドキドキしたものです。私が小学六年生の春にデビューして、中学二年の夏に突然マスクを置いて消えてしまった。あの喪失感も含めて、タイガーマスクは私の昭和プロレスの原点でした。 そして、なんといってもアントニオ猪木です。ホーガンはもちろん、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン。強敵が次から次へとやってくる。なかでも忘れられないのが、昭和五十七年の、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の「はぐれ国際軍団」三人を相手にした、一対三のハンディキャップマッチです。一人対三人ですよ。いま冷静に振り返ると、とんでもないことをやっていたと思います。けれど当時の私たちは、それを大真面目に、固唾をのんで見ていたのです。猪木なら、本当に三人倒すかもしれない。そう思わせる何かが、あの人にはありました。 一年越しのリベンジマッチ さて、昭和五十九年六月十四日です。 この試合には前段があります。ちょうど一年と少し前、昭和五十八年六月二日。同じ蔵前国技館で行われた第一回IWGP優勝戦で、猪木はホーガンの必殺技アックスボンバーを浴び、場外で失神KO負けを喫しました。世に言う「舌出し失神」です。あの猪木が、リング下で白目をむいて伸びている。テレビの前の少年には、にわかには信じられない光景でした。 しかもこの一年で、ホーガンはさらに大きくなっていました。映画『ロッキー3』に出演し、昭和五十九年の一月にはWWF世界ヘビー級王者にまで上りつめている。四十一歳の猪木と、三十一歳の絶頂期ホーガン。一年越しのリベンジマッチに、蔵前国技館は超満員。誰もが、猪木の雪辱だけを信じて集まっていました。 試合は午後八時二十分にゴング。一進一退の攻防から両者場外でもつれ、十七分十五秒、両者リングアウト。協議の末に時間無制限の延長戦が決まりますが、これもわずか二分余りで再び両者カウントアウト。そして再々延長に突入した、そのときでした。 ここで少しだけ、長州力という男の話をしなければなりません。昭和五十七年、長州は藤波辰巳(現・辰爾)に向かって「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と吠え、下剋上ののろしを上げました。そこから始まった藤波との抗争は「名勝負数え歌」と呼ばれ、長州は維新軍のリーダーとして、猪木の新日本に反旗を翻す側のスターになっていた。つまりこの夜、リングサイドの長州は、猪木とは敵対関係の真っただ中にいたのです。 リングサイドにいたその長州力が、再々延長のさなか、突如として猪木とホーガンの双方にリキ・ラリアットを見舞いました。混乱の中、先にリングに戻った猪木がリングアウト勝ち。猪木は念願のIWGP初制覇を果たしました──が、館内は祝福どころではありません。 「こんな決着があるか」。一年待ったリベンジマッチの結末が、第三者の乱入によるリングアウト勝ちでは、納得できるはずもない。怒った観客が座布団やゴミをリングに投げ込み、場内は騒然。ついには蔵前警察署から警官十八人が出動する事態となりました。新日本プロレス史上初の本格的な暴動、「蔵前暴動」です。 さて、ここで正直に告白しなければなりません。私はこの夜のことを、覚えていないのです。 毎週欠かさず『ワールドプロレスリング』を見ていた中学三年生が、昭和プロレス史に残る大事件の夜を思い出せない。自分でも不思議でなりません。翌日の教室では、絶対に話題になっていたはずなのです。誰かが「昨日の蔵前、すごかったらしいぞ」と騒ぎ、誰かがスポーツ新聞の見出しを語り、長州はけしからんと誰かが憤っていたはずなのです。それなのに、その場面がどうしても出てこない。 記憶とは不思議なものです。タイガーマスクの宙を舞う姿や、一対三に挑む猪木の背中のような「画」は、四十年経ったいまも鮮明に焼き付いているのに、事件としてのあの夜だけが、すっぽりと抜け落ちている。けれど、こうも思うのです。覚えていないのは、あの頃の私にとって、金曜八時のプロレスがそれだけ「当たり前の日常」だったからではないか、と。特別な夜として構えて見ていたのではなく、毎週の暮らしの中に、プロレスが空気のように溶け込んでいた。覚えていないことが、かえって熱中の深さの証拠になっている気がするのです。 蔵前国技館、最後の年 ところで、この昭和五十九年は、蔵前国技館にとって最後の年でもありました。この年の秋場所を最後に三十年余りの役目を終え、翌昭和六十年一月には隅田川の対岸に両国国技館が開館します。力道山の時代から数々の名勝負を見届けてきた「プロレスの聖地」は、最後の最後に、座布団の舞う大暴動まで見届けて幕を下ろしたことになります。 蔵前という土地は、私にとって遠い場所ではありませんでした。子どもの頃から乗り慣れた都営浅草線で、京成高砂から押上を抜けて、まっすぐ行った先に蔵前駅はあります。同じ一本の線路の先で、あの夜、大人たちが本気で怒り、警官隊が駆けつけていた。そう思うと、テレビの中の出来事が、急に地続きのものに感じられるのです。 本気で信じていた、あの熱 いまになって思います。あの頃の私たちは、プロレスを「本当か嘘か」という物差しで見ていませんでした。猪木は本当に強いのか。あの技は本当に効いているのか。そんなことを教室で大真面目に議論するのが、あの時代の男子の日常でした。答えなんて出ません。でも、その答えの出なさこそが、昭和のプロレスの魔力だったのだと思います。 大人たちは時々、「プロレスなんて八百長だろう」と水を差しました。けれど少年の私には、それはどうでもいいことでした。一対三で立ち向かう猪木の背中も、四次元殺法のタイガーマスクも、舌を出して失神した猪木が一年かけて挑んだリベンジマッチも、私の中ではぜんぶ「本当」だったからです。観客が本気で怒って暴動になるくらい、みんなが本気で信じていた。あの夜の蔵前の怒りは、裏を返せば、それだけ深く信じられていたことの証拠なのだと、いまなら分かります。 あれから四十年余り。IWGPの名前は、いまも新日本プロレスの最高峰のベルトに受け継がれています。あの夜、蔵前で観客を激怒させた「IWGP」という三文字が、令和の東京ドームで歓声を浴びている。猪木さんも、ホーガンも、もうこの世にいません。けれど「元気ですかーッ!」の声は、私の耳の奥で、いまもはっきりと鳴っています。そして令和のいま、見たい試合はいつでもスマートフォンで呼び出せます。便利になりました。けれど、家族でチャンネルを取り合いながら、週に一度の放送を正座して待った、あのざわざわした金曜八時の夜は、もうどこにもないのです。 みなさんは、昭和のプロレスにどんな思い出がありますか。テレビの前で叫んだ技の名前、学校でのプロレスごっこ、忘れられない名勝負──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった | 次の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた ▶

June 14, 2026

『坂の上の雲』と正岡子規の野球 ― 上野公園に残る明治のベースボール

白状すると、私は『坂の上の雲』のファンである。 最初はテレビだった。NHKのスペシャルドラマを観て、すっかり引き込まれ、その勢いで司馬遼太郎の原作を手に取った。読み終えて、しばらくしてまた読んだ。そしてもう一度。つまり三度、あの長い物語を読み返したことになる。秋山好古、真之の兄弟、そして正岡子規。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていった青年たちの物語は、何度読んでも飽きることがない。不思議なもので、読み返すたびに心に引っかかる場面が変わる。若い頃に通り過ぎた一行が、歳を重ねてから読むと、急に立ち上がってくることがあるのだ。長い小説を読み返す愉しみは、たぶんそこにある。 なかでも私が好きなのは、物語の序盤、まだ何者でもない真之と子規が、東京で青春を過ごす場面だ。そこに、野球が出てくる。上野の草原で、書生たちがボールを追いかける場面である。 俳人・正岡子規と野球。一見、結びつかないようでいて、実はこのふたつ、切っても切れない関係にある。今日はその話を書いてみたい。じつはこの日、私は所用で上野に来ていて、その合間の休憩時間に少し走った。せっかく現地にいるのだから、自分の足で確かめないわけにはいかない。その話は、最後に。 俳人になる前の、野球青年だった子規 正岡子規は慶応三年(一八六七年)の生まれ。日本にベースボールを伝えたのは、明治五年(一八七二年)頃、第一大学区第一番中学(のちの開成学校)で教えていたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンだとされている。ちなみにこのウィルソン、子規より一年あとの二〇〇三年に、やはり野球殿堂入りを果たしている。伝えた人と広めた人が、百年あまりの時を経て同じ殿堂に並んでいるのだから、出来すぎなくらい美しい話だ。 子規が大学予備門(のちの一高)の学生だった明治十九年から二十三年頃には、まだ「野球」という日本語すら一般には定着していなかった。横文字のまま「ベースボール」と呼ばれる、書生たちの新しい遊びだった。 子規はこれに夢中になった。仲間たちと連れ立って、上野公園の空き地でボールを追いかけた。守備位置は捕手。のちに病床に伏す人、という印象の強い子規が、二十歳そこそこの頃には汗まみれでマスクをかぶり、ミットを構えていたのである。 有名な逸話がある。子規の幼名は「升(のぼる)」。これにちなんで、雅号のひとつを「野球」と書いて「のぼーる」と読ませた。ただし、誤解のないように書いておくと、「野球(やきゅう)」という訳語そのものは、のちに教育者の中馬庚が考案したものとされる。子規の「野球(のぼーる)」は、あくまで自分の名前にボールを忍ばせた言葉遊びだ。それでも、雅号にまで持ち込むほど好きだった、ということがよく分かる。 言葉の人が、野球に残した言葉 子規の野球への貢献は、プレーだけにとどまらない。彼は言葉の人だった。「打者」「走者」「直球」「四球」――今では当たり前に使われている野球用語の多くを日本語に訳し、その普及に貢献したとされる。新聞「日本」の記者となってからは、ルールや面白さを伝える随筆を書き、野球を詠んだ俳句や短歌も数多く残した。 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも これは子規の短歌である。万葉集ばりの枕詞「久方の」のあとに、いきなり「アメリカ人」と「ベースボール」が続く。この取り合わせの大胆さに、私は笑ってしまうと同時に、しびれてしまう。古典の教養と、舶来の新しい遊びへの少年のような好奇心。子規という人の魅力が、この一首に凝縮されている気がするのだ。 その功績が認められ、没後百年にあたる二〇〇二年、子規は野球殿堂入りを果たしている。俳人が野球殿堂に名を連ねるというのは、考えてみれば不思議な光景だが、明治の野球黎明期を知る者にとっては、むしろ当然の顕彰だったのだろう。 小説の上野の場面は、ほぼ史実だった さて、『坂の上の雲』に描かれた上野での野球は、司馬遼太郎の創作ではない。 子規自身の随筆『筆まかせ』に、明治二十三年三月二十一日の午後、上野公園の博物館横の空き地で試合をしたことが記されている。このとき子規が守ったのは、やはり捕手だった。つまり、小説の中で書生たちがボールを追っていたあの草原は、子規が実際にプレーしていた場所そのものなのである。 しかも、この試合には少し切ない背景がある。子規はその前年、明治二十二年に最初の喀血をしている。「子規」という号自体、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスにちなんだものだ。つまり明治二十三年春のこの試合は、すでに病を抱えた体で立ったグラウンドだった。子規が思い切りボールを追えた時間は、実はもう、残り少なかったのである。 三度読んだ小説の一場面が、百三十年以上前の上野に実在した光景だった。この事実を知ったとき、私は物語と現実の距離が、すっと縮まったような気がした。 正岡子規記念球場のこと 現在、上野公園の中に野球場がある。正式名称は「上野恩賜公園野球場」。東京文化会館の裏手にあたる、両翼六十五メートルほどの小ぶりなグラウンドで、休日には草野球や少年野球でにぎわう。 この球場に、二〇〇六年(平成十八年)七月二十一日、「正岡子規記念球場」という愛称が付けられた。上野恩賜公園の開園百三十周年を記念する事業の一環で、同じ日に句碑の除幕式も行われている。碑に刻まれているのは、子規のこの句だ。 春風や まりを投げたき 草の原 春の風に吹かれて、ボールを投げたくてたまらない。若き日の子規の、体の奥から湧き上がるような野球への思いが、十七文字にそのまま閉じ込められている。 ひとつ付け加えておくと、この球場そのものが子規の時代からあったわけではない。子規たちがプレーしたのは、あくまで公園内の空き地や草原である。後年、そのゆかりを記念して、いま公園にある球場に子規の名が冠された、というのが正確なところだ。それでも、子規がボールを追った同じ上野の杜に、彼の名を持つグラウンドがあり、今も子どもたちが白球を追いかけている。これはなかなか、いい話ではないかと思う。 白球を追った者として 実は私自身、中学から高校まで野球部で白球を追いかけてきた人間である。昭和五十年代の終わりから六十年代、来る日も来る日も泥だらけでボールを追った日々を思い出すと、明治の書生たちが上野の草原ではしゃいでいた光景が、他人事とは思えなくなる。 道具も整わない、ルールの翻訳すらこれからという時代に、それでもボールを投げ、打ち、走ることが、たまらなく楽しかったのだろう。その楽しさは、百年経っても変わらない。子規は三十四年の短い生涯のうち、晩年の多くを病床で過ごした。だからこそ、思い切り体を動かせた上野での日々は、彼にとってかけがえのない時間だったはずだ。「まりを投げたき」という句に込められた切実さは、病を得てからの子規が振り返る、あの草の原の眩しさでもあったのだと思う。 令和の野球は、ずいぶん遠くまで来た。メジャーリーグで日本人選手が当たり前に活躍し、きらびやかなボールパークの映像が毎日のように流れてくる。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれど野球の原点は、子規たちが駆け回った、あの何もない草の原にある。ボールひとつとバットが一本あれば、それだけで日が暮れるまで楽しかった――その感覚を、私は自分の少年時代の空き地や校庭の記憶として、確かに知っている。 走って、確かめてきた その日は、上野での用事の合間に少し時間が空いた。せっかく現地にいるのだから、走らない手はない。私は身軽になって、公園の中を走り出した。 まず向かったのは、国立科学博物館の前である。大きな楠が枝を広げ、その向こうにシロナガスクジラの実物大模型が横たわっている。広場には観光客や家族連れが思い思いに腰を下ろしている。舗装された明るい広場だ。けれど、ここがあの「博物館横の空き地」の一帯なのだと思うと、足元の景色が少し違って見えてくる。百三十年あまり前、この近くで子規たちがボールを追っていた。観光客のざわめきの底に、書生たちの掛け声が聞こえてくるような気がした。 球場は、東京文化会館の裏手にあった。入口の門には、堂々と「正岡子規記念球場」の看板が掲げられている。足元のマンホールの蓋にまで、同じ文字が刻まれていた。そして、ちょうどこの日は少年たちが試合の最中だった。金網の向こう、土のグラウンドと天然芝の上を、白いユニフォームが駆けていく。打球の音と、監督の声と、子どもたちの歓声。「今も子どもたちが白球を追いかけている」と先に書いたが、それはまさに、目の前の実景だった。 句碑は、球場脇の木陰にひっそりと立っていた。これがなかなか凝った造りで、黒い御影石の上に、白い円盤がはめ込まれている。近づいてよく見ると、その円盤は野球のボールなのだ。白い革に縫い目が走り、その縫い目の間を縫うように、句が刻まれている。 春風や まりを投げたき 草の原 文字だけで知っていたこの句が、ボールの意匠の中に立ち上がっているのを見て、思わず唸ってしまった。手前には台東区教育委員会による解説板があり、平成十八年七月の建立であること、子規の経歴と野球への貢献が丁寧に記されている。 目を閉じて 句碑の前を離れ、グラウンドの脇にしばらく立った。 少年たちの声を聞きながら、私は目を閉じてみた。ここで、若き日の子規と真之が野球をしている。汗まみれの書生たちが、声を上げ、ボールを追い、笑っている。まだ何者でもない青年たちが、これから登っていく坂の上の雲を、まだ知らないままに。 目を開けると、目の前では令和の少年たちが白球を追っていた。明治の書生も、昭和の野球少年だった私も、いま目の前で駆けるあの子たちも――根っこのところは、何ひとつ変わっていない。春風の中でボールを投げたい、ただそれだけの気持ちで、人は草の原に立つのだ。 三度読んだ小説の一場面が、自分の足で立つ現実の風景とひとつになった。用事の合間のほんの短い時間だったけれど、忘れがたいひとときになった。 まだ読んだことのない方は、ぜひ一度。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていく青年たちの物語です。長い旅ですが、何度でも読み返したくなります。 新装版 坂の上の雲(一)司馬遼太郎/文春文庫(新装版・全8巻)。まずは第一巻から Amazonで見る › 皆さんには、好きな小説の舞台を訪ねてみたい場所がありますか。よろしければ、コメントで教えてください。

June 13, 2026