昭和58年8月13日。この日は土曜日でした。そしてこの日から、毎月第2土曜日は銀行や証券会社の窓口が閉まることになりました。東京証券取引所の株取引も休みです。日本の金融機関が「土曜日に休む」ということを、初めてやった日でした。 当時、私は中学2年生。14歳の夏です。 銀行が閉まった、最初の土曜日 いまの感覚だと、何が事件なのかわかりにくいと思います。銀行は土日休みで当たり前ではないか、と。 でも昭和58年までは違いました。銀行は土曜日も開いていました。月曜から金曜まではフルに働き、土曜日は午前中だけ営業して閉める。それが普通でした。だから第2土曜日だけでも終日休みにするというのは、当時としては相当に大きな決断だったのです。 いまなら、窓口が閉まっていてもATMがあり、振込も入出金もスマートフォンで済みます。しかし当時は、お金にまつわることの多くが「窓口へ行って人と話す」ことで動いていました。窓口が閉まるというのは、そのままお金が動かせなくなるということです。第2土曜日だけとはいえ、その日に用のあった人は前日までに済ませておかなければならない。休みが増えるというのは、当時それなりに面倒を伴う変化でもあったのだと思います。 しかもこの昭和58年8月13日は、月遅れのお盆の入りでもありました。迎え火をたいて先祖の霊を迎える日です。世の中がいちばん「休みらしい空気」になる日に、銀行のシャッターが初めて土曜日に下りた。並べてみると、偶然にしてはよくできているような気がします。 「半ドン」という言葉 土曜日の午前中だけ働くことを、当時は「半ドン」と呼びました。 この「ドン」は、休日を意味する「どんたく」が縮まったものだそうです。そしてその「どんたく」は、オランダ語で日曜日を意味する「ゾンターク」が江戸時代に日本語のなかへ取り込まれたもの、とされています。博多どんたくの「どんたく」も同じ語源だといいます。江戸時代のオランダ語が、昭和の勤め人と中学生の口から毎週出ていたわけです。言葉というのは、ずいぶん遠くから旅をしてくるものです。 中学2年の、土曜日の午後 学校も半ドンでした。土曜日は午前で授業が終わり、給食もなく、昼前に帰る。 ただし私の場合、それで一日が終わるわけではありませんでした。中学の野球部にいましたから、土曜日は一度家に帰って昼食をとり、それからまた学校へ出直して練習、という流れです。 いま思うと、この「一度帰る」というひと手間が、土曜日という日をよけいに特別なものにしていた気がします。平日ならそのまま部活に入る。日曜なら朝から丸ごと練習の日になる。土曜日だけが、家の食卓を一回はさむのです。昼にいったん家の匂いのする時間があって、そこからまた着替えて出ていく。あの往復が、土曜日の記憶にはくっついています。 世の中では、この年から銀行が第2土曜日に閉まりはじめていました。もちろん14歳の私が、そんなことを気にしていたはずはありません。 なぜ土曜日が休みになったのか きっかけは、外からの声でした。 高度成長を続けた日本に対し、欧米から「日本人は働き過ぎだ」「労働者をあれだけ働かせるのは不公正だ」という批判が強まっていました。国内からも、もっと生活にゆとりを、という声が出はじめます。そこで官公庁が主導する形で土曜日の休日化が動き出し、金融機関などの民間もそれに追随した。その第一歩が、昭和58年8月13日の第2土曜日休業でした。 つまりこの日の休みは、「働く人が勝ち取った休み」というより、「外から言われて日本が重い腰を上げた休み」だったわけです。そのあたりが、いかにも昭和という感じもします。 制度の側もあとから追いついてきます。昭和22年に制定された労働基準法は、1日8時間・1週48時間という体制を40年続けてきました。それが改められ、1週40時間労働が規定されたのは昭和63年4月施行の改正労働基準法から。ただしこれも段階的な移行と猶予期間つきでした。土曜日というのは、法律を一本変えれば消えるようなものではなく、20年近くかけてじりじりと後退していったわけです。 休みが金曜日だった父 うちの父は、飲食店に勤めていました。 飲食店ですから、土曜も日曜も、世の中が休む日ほど忙しい。父の休みは毎週金曜日でした。そして世間が半ドンから週休二日へと移っていくあいだも、父の「毎週金曜日休み」は最後まで変わりませんでした。 だからわが家の食卓に、「週休二日」という言葉が出てきた記憶がありません。土曜日が半日になろうが休みになろうが、うちの父には関係のない話だったのです。家族そろって連続して休めるのは正月の1日と2日だけ。車もなく、子どものころに泊まりの家族旅行をした覚えもありません。 世の中が休み方を変えていくニュースというのは、たいてい「勤め人の休み方」の話です。その外側に、休みが動かない仕事の人たちがずっといた。父はその一人でした。 土曜日は、少しずつ消えていった 第2土曜日から始まった土曜休業は、そこから段階を追って広がっていきます。 昭和61年8月9日、第3土曜日も休業日に加わり、いわゆる「4週6休」になりました。そして平成元年2月4日以降、金融機関はすべての土曜日が休みになります。官公庁の土曜閉庁が始まったのは平成元年1月14日で、こちらもまず第2・第4土曜日から。国家公務員の完全週休二日制は、平成4年5月1日からでした。 学校はもっと後です。全国の国公立の学校で毎月第2土曜日が休業日になったのは平成4年9月から。平成7年4月に月2回、完全な学校週5日制になったのは平成14年4月のことでした。 ここで自分の年表と重ねてみて、あらためて気づいたことがあります。 私は昭和51年4月に小学校へ入り、昭和63年3月に高校を卒業しました。その12年間、土曜日はずっと学校がありました。一度も「土曜が休みの学校生活」を経験していません。土曜休みの学校というものを、私はまったく知らない世代なのです。 平成5年、私は信用金庫に入った そして話には続きがあります。 一年の浪人を経て平成元年に大学へ入り、平成5年に卒業した私が新卒で就職した先は、信用金庫でした。金融機関です。昭和58年8月13日に、日本で最初に土曜日を休みにした業界です。 入ってみれば、土曜日は当然のように休みでした。私が中学2年で野球の練習に出直していたころに始まった第2土曜日の休業は、10年かけて全部の土曜日に広がり、私が社会に出たときにはもう「そういうものだ」という顔をしていたわけです。 ただ、職場の先輩方は違いました。ときどき「半ドン」という言葉を使いながら、昔の土曜日の話をしてくれるのです。午前中だけ窓口を開けて、昼で締めて、そのあとどうしていたか。その口ぶりには、面倒だったという顔と、少し懐かしがる顔が両方ありました。 私はその話を、休みが当たり前になった側の人間として聞いていました。変わり目を挟んで、同じ職場に両方の世代がいたということです。いま振り返ると、あれはなかなか贅沢な昔話を聞かせてもらっていたのだと思います。 曜日のない仕事につくということ いま私は路線バスの運転士をしています。 この仕事に、土日休みという概念はありません。むしろ土曜日は、平日とは別のダイヤで走る日です。平日ダイヤ、土曜ダイヤ、休日ダイヤ。バスの世界では曜日は「休むための区分」ではなく、「走り方を変えるための区分」なのです。 そして実際に走っていると、いまの土曜日の車内は、日曜や祝日とほとんど変わりません。平日とは明らかに別物です。通勤通学の流れがなく、乗ってくる人も、時間帯も、車内の空気も違う。昭和58年に第2土曜日から始まったあの動きは、40年かけて、バスの車内の景色まで完全に作り替えてしまったのだと思います。 半ドンだったころの土曜日の車内は、きっと平日寄りだったはずです。私はその土曜日を運転士としては知りません。中学生として、昼前の道を家に向かって歩いていただけです。 半ドンを知っている、最後のあたり 「半ドン」は、いまではほぼ死語です。 言葉が消えたのは、その言葉が指していたものが消えたからです。土曜日の午前中だけ働くという習慣がなくなれば、それを呼ぶ言葉もいらなくなる。昭和58年8月13日の第2土曜日休業は、その長い消滅の始まりの一日でした。 あの日から40年以上たって、土曜日は完全に休みの日になりました。それは間違いなく良いことだと思います。金曜日にしか休めなかった父の世代を思えば、なおさらです。 ただ、昼前に授業が終わって、一度家に帰って昼飯を食い、また学校へ出直していったあの土曜日を覚えている人間は、だんだん少なくなっていきます。信用金庫の先輩たちが私に「半ドン」の話をしてくれたように、こうして書き残しておくのも役目なのだろうと思っています。 「なぜ日本の会社はこうなっているのか」を、雇用・教育・福祉の歴史からたどった一冊があります。土曜日が20年かけてしか消えなかった理由も、この本を読むと腑に落ちます。新書ですが読みごたえは相当なものです。 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学(講談社現代新書)小熊英二/講談社。日本型雇用はいつ、なぜできたのか。年功序列も新卒一括採用も長時間労働も、歴史をたどると理由がある。レビュー447件・星4.3の定番書 Amazonで見る › 半ドンの土曜日そのものを写した本はなかなかありませんが、あの頃の家と道具を写真で残した図鑑ならあります。ページをめくっていると、土曜の昼に帰った家の台所が出てきます。 ...
【昭和の今日は何があった日?】8月12日──甲子園と、御巣鷹と、同じ夏
今日は8月12日。明日からお盆に入るという、一年でいちばん人の動く時期です。 昭和60年(1985年)のこの日も、まさにそういう日でした。新幹線も、高速道路も、空の便も、帰省する人と旅行に出る人でぎっしりと埋まっていた。羽田から大阪へ向かう便は、三週間も前からほとんど満席だったといいます。 その夕方、日本航空123便が群馬県の山中に墜落しました。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなった。単独機の事故としては、いまなお世界最悪の航空事故です。 この連載を書きながら、8月12日をどう扱うか、私はずっと考えていました。軽く触れて通り過ぎることはできない。かといって、私が何かを語れる立場でもない。 それでも書こうと思ったのは、あの日が私にとって、忘れようのない「あの夏」の一部だからです。そして今、私が人を乗せて運ぶ仕事をしているからです。 あの夏の関心事は、甲子園だった 昭和60年8月12日。私は16歳、高校1年生でした。 正直に書きますが、あの日の日中の私の頭の中にあったのは、飛行機のことでも、お盆のことでもありません。甲子園でした。 第67回全国高等学校野球選手権大会は、この年の8月8日に開幕していました。そして何より、PL学園の桑田真澄と清原和博――「KKコンビ」にとって、最後の夏だったのです。あの二人が甲子園で戦う姿を見られるのは、この夏で終わり。高校で野球をやっている人間にとって、これ以上の関心事はありませんでした。 その夏、私は足を骨折していたはずです。それでも昼間は学校へ行き、野球部の練習に出ていました。 夕方、家に帰りました。今日の甲子園はどうなったんだろう、と確認するつもりでテレビをつけたのだと思います。 そこに流れていたのは、まったく別のニュースでした。 日航機が、レーダーから消えた。 18時12分から、18時56分まで 事故当日の123便は、定刻より12分遅れて、18時12分に羽田を離陸しました。 離陸から12分後の18時24分。伊豆半島南部の東岸上空にさしかかったあたりで、機体後部の圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼の大部分と補助動力装置が吹き飛び、四系統ある油圧の操縦システムを、すべて失いました。 飛行機の操縦は、油圧で舵を動かすことで成り立っています。それが全部なくなった。ハンドルもブレーキも効かない車が、時速数百キロで走り出したようなものです。 普通なら、そこで終わりです。 ところが123便は、そこから32分間、飛び続けました。 機体は上下に激しく揺れ、左右に振られながら、それでも空にとどまり続けた。乗務員は、左右のエンジンの出力をわずかずつ変えることで、機首の向きを変えようとしていました。効くはずのない方法で、それでも機体を立て直そうとし続けたのです。 そして18時56分、群馬県多野郡上野村、高天原山の尾根に墜落しました。標高1,565メートル。のちに「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになる場所です。 夜の山中で、墜落地点の特定は難航しました。地上から現場を目で確認できたのは、翌13日の朝7時34分。最初の生存者が見つかったのは、10時45分でした。 生存者は4名。全員が女性で、全員が重傷でした。524名のうち、4名。 原因は、7年前にさかのぼります。事故機は昭和53年6月、伊丹空港で機体の尾部を滑走路に打ちつける事故を起こしていました。そのとき損傷した後部圧力隔壁の修理が、正しく行われていなかった。7年間飛び続けたあとで、その箇所が耐えきれなくなったのです。 名簿に並んだ、名前 翌日から、搭乗者名簿が少しずつ明らかになっていきました。 歌手の坂本九さん。当時43歳。「上を向いて歩こう」が海の向こうで『SUKIYAKI』という題名になり、アメリカのヒットチャートで1位になった、日本でただ一人の歌手です。ただ私たちの世代にとっては、伝説の人というより、テレビでよく見る「九ちゃん」でした。 あの訃報には、本当にショックを受けました。今でもこの事故の話を耳にすると、テレビの中で「上を向いて歩こう」を歌う九さんの映像が、条件反射のようによみがえってきます。 宝塚歌劇団の娘役だった北原遥子さん、24歳。阪神タイガース球団社長の中埜肇さん。 そして、竹下元章さん、47歳。 この方の名前を、私は今回この記事を書くために調べていて初めて知りました。元プロ野球選手で、捕手だった方です。現役引退後は会社勤めをされ、勤務先の関係で群馬県に住んでおられました。 竹下さんは、あの日、甲子園に向かっていました。 群馬県代表として第67回大会に出場していた、東京農業大学第二高等学校。その野球部に、竹下さんの息子さんがいたのです。息子の応援に行くために、羽田発伊丹行きの便に乗った。それが123便でした。 四十年経って、私はこの事実の前でしばらく手が止まりました。 あの夏、私が「今日の甲子園はどうなったかな」とテレビをつけたのと同じ日に、息子の試合を見に甲子園へ向かった父親が、あの飛行機に乗っていた。私の頭の中でまったく別々の場所にあった「甲子園」と「御巣鷹」が、一人の方の上で交差していました。 一日のうちに、終わったものと始まったもの もう一人、名簿に載っていた方がいます。ハウス食品工業社長の、浦上郁夫さん。47歳。 この方の名前のところで、この日のもうひとつの出来事が重なります。 同じ8月12日、報道機関に一通の手紙が届いていました。差出人は「かい人21面相」。1年半にわたって食品会社を脅し続け、日本中を不安に陥れたグリコ・森永事件の犯人グループからの、一方的な終結宣言でした。 脅迫を受けていた企業のひとつが、ハウス食品工業です。浦上社長は、事件が終わったことを、大阪にある父上――同社の創業者――の墓前に報告するため、その日のうちに大阪へ向かいました。 その便が、123便でした。 一日のうちに、昭和を騒がせたひとつの事件が幕を引き、もうひとつの惨事が始まった。そしてその二つが、一人の方の上で交差してしまった。何かの意味を見出したくなるような偶然ですが、意味などありません。ただ、そういうことが起きた、というだけです。 昭和60年の夏というのは、そういう夏でした。 「同じ夏」の記憶 あの頃の我が家は、テレビが必ずついている家でした。朝も、夕方も、夜も。だから事故の報道は、いやでも何度も目に入ってきました。 とりわけ生々しく残っているのが、翌朝の救出の映像です。 自衛隊のヘリコプターが山の上でホバリングして、隊員が降りていき、12歳の少女を吊り上げていく。あの映像は、四十年経った今でも、私の中で色褪せていません。テレビの前で、家族全員が黙って画面を見ていたあの空気ごと、覚えています。 そしてその同じ夏、甲子園ではKKコンビが暴れ回っていました。清原がホームランを打ち、桑田が投げ、PL学園は8月21日の決勝で宇部商業を下して優勝しました。私はそれを、テレビの前で夢中になって見ていたはずです。 不思議なのは、この二つが私の中で、まったく同じ強さで残っていることです。 普通なら、520人が亡くなった事故のほうが圧倒的に重いはずです。でも私の記憶の中では、清原のホームランと、ヘリコプターから吊り上げられる少女の映像が、同じ濃さで並んでいる。 たぶん、それが「同じ夏」だったからなのでしょう。 16歳の私は、あの二つを別々の出来事として整理する術を持っていませんでした。ただ、同じテレビの中で、同じ夏に、続けて起きたこととして受け取った。だから記憶の棚に、隣り合わせで入っている。振り返れば不謹慎な並べ方に思えるかもしれませんが、記憶というのはそういうものなのだと思います。 お命を預かる、ということ 私は今、路線バスの運転士をしています。 初めてお客さまを乗せて運行に出た日のことを、はっきり覚えています。 ...
8月11日は「きのこの山の日」──昭和50年、里山の名前を持つお菓子が生まれた日|昭和の今日は何があった日?
8月11日は「きのこの山の日」だそうです。 株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。 ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。 それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。 きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。 アポロが売れなかったから、きのこが生まれた きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。 1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。 1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。 そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。 売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。 「きのこの山」という、時代に逆らった名前 商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。 当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。 ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。 そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。 さて、ここで白状しておかなければなりません。 私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。 発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。 大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。 覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。 食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。 そして今も、私はきのこの山が大好きです。 昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。 きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。 1979年、私は10歳。小学4年生です。 私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。 ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。 私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。 今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。 考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。 つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。 いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。 明治 きのこの山・たけのこの里 ビッグシェアパック 36袋(各18袋)食べきりサイズの小袋で、きのこ18・たけのこ18の同数アソート。家族で「どっち派か」を決着させるにはちょうどいい構成です Amazonで見る › そして、私が知らないうちに消えた村がある ここからが、今日いちばん書きたかった話です。 きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。 細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。 発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。 山は残り、里は残り、村だけが消えた。 ──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。 私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。 今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。 18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。 お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。 ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。 後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた 最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。 昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。 私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。 残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。 みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。 ...
道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)
八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...
同じ8月9日、二年続けて──近藤真一と、私の抜け殻の夏|昭和の今日は何があった日?(8月9日)
「や(8)きゅう(9)」の日 8月9日は「野球の日」だそうです。「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせと、ちょうど全国高校野球選手権大会の期間中で野球への関心がいちばん高まる季節だから、という理由でスポーツ用品メーカーの直営店が制定したものです。制定は平成6年ですから、昭和の子どもだった私にとっては、後から知った新しい呼び名にすぎません。 それでも、この語呂合わせを考えた人は、よく八月という月を分かっていたと思います。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っている月でした。昼はテレビで甲子園、夜はナイター。窓を開け放した家々から、同じ実況が重なって聞こえてくる。そういう夏でした。 そして私にとって、8月9日は本当に野球の日です。記念日とはまったく関係のないところで、二年続けて、同じ日付に、同じ一人の投手のことを記憶しています。 一年目は、鮮明に。二年目は、まったくの空白として。 1986年8月9日、甲子園のマウンド 最初の8月9日は、1986年(昭和61)です。私は高校2年生でした。 その日、甲子園のマウンドに立っていたのが、享栄高校(愛知)の左腕・近藤真一投手です。3年生。春の選抜では「剛腕」と騒がれながら初戦で新湊(富山)に0対1で敗れていて、雪辱を誓って夏の第68回大会に乗り込んできていました。 1回戦の相手は唐津西(佐賀)。結果は8対0、近藤投手が被安打1、15奪三振の完封です。 私は当時、自分も高校野球の真っただ中にいました。3年生が引退して新チームが動き出したばかりの夏で、毎日、練習に明け暮れていた時期です。汗と土のまま帰ってきて、飯を食って、テレビをつければ甲子園をやっている。同じ高校生が、同じ白球で戦っているのを見る。あの頃の八月は、そういう組み立てでした。 だから近藤投手の姿は、単なる甲子園のスターというより「同じ高校生なのに、ここまで違うのか」と驚かされる存在でした。細かな場面まで鮮明に覚えているわけではありません。それでも、三振を次々と奪っていく左腕の速球と、打者に向かって堂々と投げ込む姿は強く印象に残りました。テレビの前で見ながら、球の速さだけでなく、甲子園の大舞台でもまったく臆する様子がないことに圧倒された記憶があります。 2回戦では優勝候補の一角と言われていた東海大甲府を2対1で破り、3回戦で高知商に敗れました。相手の先発は、後にヤクルトへ進む岡林洋一投手。投手戦の末の惜敗でした。ただ、その時点ですでに「この投手はプロへ行くのだろう」と感じさせる、特別な存在でした。 そのころの私にとって、近藤投手は手の届かない別世界の選手でもありました。同じ高校野球をしていても、こちらは毎日の練習と目の前の試合に精いっぱいです。一方、甲子園のマウンドには、全国から注目され、プロへの道を切り開こうとしている同世代の投手が立っている。憧れよりも先に、その才能の差を思い知らされた——というのが、正直なところだったかもしれません。 それから一年、私の野球は終わった 1987年(昭和62)7月23日。神宮第二球場、東東京大会の四回戦。2対3。一点差で負けて、私の高校野球は終わりました。小学校の路地野球から中学、高校とずっと続けてきたものが、あの日、あの球場で終わったのです。 そのあとの日々は、正直に言えば、何もする気になれませんでした。先の進路も全く決まっていませんでしたから、まさに「抜け殻状態」です。 八月に入ればテレビでは甲子園が始まって、去年の自分と同じ場所に、今年は別の高校生たちが立っている。それを扇風機の前で眺めている。何をするでもなく、何を決めるでもなく、ただ日が過ぎていく。あの座り心地の悪さは、今でも思い出せます。 不思議なもので、負けた直後というのは、案外そこまで堪えないものです。効いてくるのはもっと後で、何でもない時間にふっと来る。今日は練習がない、明日も練習がない、来週も練習がない——十年近く体に染み込んでいた予定が、丸ごと消える。その空白の大きさに気づくまでに、少し時間がかかりました。 前の年の八月は、練習でくたくたになって帰ってきて、それでもテレビの甲子園を見ていました。この年の八月は、くたくたになる用事が何もない。同じ扇風機の前に座っているのに、体の芯の残り方がまるで違うのです。 1987年8月9日、ナゴヤ球場 その抜け殻の十七日目が、8月9日でした。 ナゴヤ球場、中日対巨人19回戦。中日の先発は、前年の同じ日に甲子園で唐津西を1安打に抑えたあの左腕、近藤真一投手です。前日に一軍へ初めて加わったばかりで、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたといいます。セ・リーグに予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前に「近藤はないんじゃないの」と語っていたそうです。 当時の巨人は2位の広島に7ゲーム差をつけて独走中。1番松本、篠塚、原、クロマティ、中畑という黄金打線でした。巨人ファンだった私からすれば、この年の打線は見ていて気持ちのいいものだったはずです。 その打線が、一本もヒットを打てませんでした。 中日は1回に3点を先制。近藤投手はこれを背に無安打投球を続け、6対0になった5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われて「いっちょう狙うか」とその気になったといいます。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドから悲鳴が上がりましたが、この年ロッテから移籍してきたばかりの落合博満が懸命にさばいて間一髪アウト。最後は篠塚利夫が近藤投手のカーブを見送ってゲームセットでした。 9回を投げて無安打無失点、四球2、失策1、奪三振13。プロ初登板・初先発でのノーヒットノーランは日本のプロ野球史上初で、アメリカのメジャーリーグにも例がありませんでした。18歳11か月。試合後、彼は「大変なことをやってしまった」と言い、「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と続けたそうです。 そして約四十年経った今も、二人目は現れていません。 その夏、私は自分の野球を終えました。同じ夏に、同い年に近い左腕がプロのマウンドで歴史をつくった。80年代のプロ野球というのは、そういう出来事が毎年どこかで起きていた時代でもあります。 懐かしの80年代プロ野球 増補改訂版(TJMOOK)宝島社。江川・掛布・原・落合……テレビをつければ野球があった時代のスターと名場面をまとめた一冊。ちょうど本記事の1986〜87年あたりが、まるごと入っています Amazonで見る › 私には、この夜の記憶がない ここまで書いておいて申し訳ないのですが、私はこの試合を見た記憶がありません。 テレビで見たのか、ラジオで聞いたのか、翌朝のスポーツ紙で知ったのか。何ひとつ思い出せないのです。前年の8月9日、甲子園の同じ投手のことはあれだけ覚えているのに。 でも、たぶん、そういうことなのだと思います。あの夏の私は抜け殻でした。野球が終わって、進路も決まっていなくて、テレビをつけても何も入ってこない。おそらくこの年でいちばん大きな野球のニュースが、私の中を素通りしていったのです。 記憶というのは、そのとき何が起きたかではなく、そのとき自分がどういう状態だったかで残り方が決まるのだと思います。1986年の私には、受け止める側の準備がありました。毎日ボールを握っていて、甲子園の投手が投げる一球一球が、自分の握っている球と地続きだった。だから残った。1987年の私には、その手がありませんでした。同じ投手が、同じ日付に、もっとすごいことをやってのけたのに、私の側に受け皿がなかったのです。 失った記憶を惜しむ気持ちは、正直あります。ただ、あの夏に何も残らなかったこと自体が、あの夏がどういう夏だったかを一番よく語っている気もするのです。 同じ日付の、別々の場所 1986年8月9日、彼は甲子園にいて、私は高校2年生としてテレビの前にいました。 1987年8月9日、彼はナゴヤ球場のマウンドにいて、私は——どこで何をしていたのかも覚えていません。 私はグラウンドを去り、近藤投手はプロのマウンドに立った。同じ一年という時間の中で、それぞれの野球はまったく違う場所へ進んでいました。だからこそ1987年8月9日の快挙は、ただの大記録としてではなく、自分の高校野球が終わった夏と重なって、今も心に残っています。前年の甲子園で見たあの左腕が、本当に別世界へ駆け上がっていった夜でした。 ちなみにこの試合は、結果として「昭和最後のノーヒットノーラン」になりました。この一年半後に昭和は終わります。あの夜、球場にいた人もテレビの前にいた人も、まさか自分が昭和最後の一本を見ているとは思っていません。誰も知らないまま、時代の最後のページがめくられていたわけです。 今、8月9日にプロ野球のナイターがあっても、地上波で中継されることはほとんどありません。あの頃は、夜になればテレビをつければ野球がありました。それが当たり前すぎて、当たり前だと思っていなかった。近藤投手のノーヒットノーランがあれだけ多くの人の記憶に残っているのも、たまたま全国の茶の間にその中継が流れていたからです。私はそれを取りこぼしましたが、取りこぼせるだけの豊かさが、あの頃の八月にはありました。 みなさんは、1987年8月9日の中日対巨人を覚えていますか。あるいは、何かが終わった直後の、記憶がすっぽり抜け落ちている時期を過ごしたことはありますか。よかったら教えてください。 近藤投手のように、一球で球場の空気を変えてしまう投手が、どの球団にも一人はいました。あの時代の「エース」がどんな数字を残し、何を考えて投げていたのかをまとめた一冊もあります。名前を追っているだけで、あの頃のテレビの音が戻ってきます。 昭和プロ野球の豪腕投手(TJMOOK)宝島社。各球団の絶対的エースを、勝率・防御率などのデータと知られざるエピソードで特集。2009年刊『プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説』の再編集版 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...
お金持ちになるのに「頭の良さ」はいらない?──世界で600万部売れた『サイコロジー・オブ・マネー』をやさしく解説!
「お金の勉強」と聞くと、むずかしい計算や投資のテクニックを想像しませんか? でも、世界中で600万部も売れた大ベストセラー『サイコロジー・オブ・マネー』(モーガン・ハウセル著)は、まったく逆のことを教えてくれます。 「お金で成功するかどうかは、頭の良さよりも“心の持ち方”で決まる」 著者のモーガン・ハウセルさんは、アメリカの有名な金融コラムニスト。この本はウォール・ストリート・ジャーナル紙から「ここ数年で最高かつ、最も独創的なお金の本」と絶賛され、日本でも21万部を超えるヒットになっています。 この記事では、この本の大事なポイントを8つにしぼって、中学生が読んでもわかるくらいやさしい言葉でまとめました。「投資はむずかしそう」と感じている人にこそ、読んでほしい内容です。 ポイント1:清掃員が8億円を残せた理由 この本の冒頭には、ロナルド・リードさんという実在の人物が登場します。彼はガソリンスタンドの店員や清掃員として一生働いた、ごくふつうの人。高い給料をもらっていたわけでも、宝くじに当たったわけでもありません。 ところが92歳で亡くなったとき、なんと約8億円もの財産を残していたことがわかり、アメリカ中が驚きました。 秘密は特別な才能ではありません。彼がやったのは、 収入の一部をコツコツ先取りで貯蓄する それを優良企業の株に投資して、何十年もほったらかしにする たったこれだけです。 一方で本には、リチャード・ファスコーンという超エリートの金融マンも登場します。ハーバード大学出身で大企業の役員にまでなった彼は、無理な借金で豪邸を買い、リーマンショックで破産してしまいました。 学歴も知識も完璧だった人が失敗し、ふつうの清掃員が大成功した。つまり、**お金は「知識」より「行動と習慣」**で決まるのです。これが本書全体を貫くメッセージです。 ポイント2:「複利」は雪だるまと同じ この本でいちばん大事な言葉が「複利(ふくり)」です。 複利とは、増えたお金がさらにお金を生むしくみのこと。雪だるまを転がすと、大きくなるほど一回転でくっつく雪の量が増えますよね。あれとまったく同じです。 たとえば100万円が毎年10%ずつ増えるとします。1年目は110万円、2年目は121万円…と最初はじれったいほどゆっくり。でも50年続けると、なんと約1億1,700万円。100倍以上です。増え方が「たし算」ではなく「かけ算」になるのが複利のすごさです。 世界一有名な投資家ウォーレン・バフェットの財産は約10兆円ですが、そのほとんどは、じつは65歳をすぎてから増えたもの。彼のすごさは天才的な投資テクニックよりも、「10歳のころから80年以上、投資をやめなかったこと」なんです。 もしバフェットが30歳で投資を始めて60歳でやめていたら、財産は今の1%にも届かなかったと著者は計算しています。 時間こそが最強の武器。「投資を始めるのに最適な日は、いつだって今日」なのです。 ポイント3:成功には「運」もまじっている ちょっと意外なポイントがこれ。著者は「成功は実力だけでは決まらない。運の要素も大きい」とはっきり言います。 マイクロソフトを作ったビル・ゲイツは、1968年当時、世界でもほとんど例のない「コンピューターが自由に使える高校」に通っていました。100万人に1人レベルの幸運です。もちろん彼の努力と才能は本物ですが、あの環境がなければ、今のマイクロソフトはなかったかもしれません。 ここから学べる教訓は2つあります。 成功した人のマネを全部しても、同じ結果にはならない(その人の運までコピーできないから) 失敗した人を「努力不足だ」と責めすぎない(運が悪かった部分もあるから) だから、SNSで話題の「億り人」の派手な手法をマネするより、多くの人に長く当てはまる「地味だけど確実なパターン」(コツコツ積み立てて長く続ける、など)に注目したほうがいい、というわけです。 ポイント4:「もう十分」と言える人が最後に勝つ お金で失敗する人に多いパターンは、「もっと、もっと」と欲張ってしまうことです。 本書には、何百億円も持っていたのに、さらに儲けようと違法な取引に手を出して人生を台なしにした大富豪たちの話が出てきます。彼らに足りなかったのは、お金ではなく「足るを知る心」でした。 著者はこう言います。 「もう十分」と思える気持ちこそが、いちばん大切なお金の能力だ。 ゴールのないマラソンを走り続ければ、必ずどこかで倒れます。年収が上がっても、周りと比べて「まだ足りない」と感じ続ける限り、いつまでも満たされません。 そして著者は、どれだけ儲かる話でも絶対に賭けてはいけないものを3つ挙げています。「評判・自由・家族や友人」。この線引きを持っている人が、最後に勝つのです。 ポイント5:本当のお金持ちは「見えない」 高級車、ブランドものの時計、豪華な旅行の写真――。SNSにはお金持ちっぽい人があふれています。 でも著者は面白いことを言います。「高級車に乗っている人は、車にお金を使ってしまった人。本当の富は、使われずに残っているお金だから、目に見えない」。 ポイント1のリードさんを思い出してください。彼が8億円持っていると気づいた人は、生前ひとりもいませんでした。見た目はただの倹約家のおじいさんだったからです。 つまり、「お金持ちに見えること」と「お金持ちであること」は正反対とすら言えるのです。同僚の新車や知人のタワマン暮らしがうらやましくなったときは、この言葉を思い出してみてください。 ポイント6:貯蓄は「自由」を買うためのもの 「なんのために貯蓄するの?」と聞かれたら、この本の答えはシンプルです。 自由を買うため。 お金があると、 嫌な仕事を「嫌だ」と断れる 病気や失業などのトラブルがあってもあわてない 自分の好きなことに、好きなタイミングで時間を使える つまり、貯蓄とは「自分の時間を自分でコントロールする力」を手に入れることです。 著者によると、幸福度を大きく左右するのは収入の高さそのものより、「自分の生活を自分で決められている感覚」なのだそうです。高級車やブランド品よりも、じつはこれがいちばんの贅沢だと著者は言います。 そしてもうひとつ大事なのが、「理由がなくても貯蓄していい」ということ。「マイホームのため」「老後のため」と目的がなくても、貯蓄そのものが未来の選択肢を増やしてくれるからです。転職したくなったとき、家族に何かあったとき、面白いチャンスが目の前に現れたとき――手元にお金がある人だけが、自分の意志で動けます。 ポイント7:未来は予想できない。だから「余裕」を持とう 天気予報だって外れるのに、何年も先の経済を正確に予想できる人はいません。リーマンショックも、コロナショックも、ほとんどの専門家は予想できませんでした。 だからこそ大事なのが「余裕(よゆう)を持つこと」。本書では「誤りの余地(room for error)」と呼ばれています。 生活費の全部を投資に回さず、現金も残しておく 「予想が外れても大丈夫」な家計の計画を立てる 「これくらい増えるはず」というリターンの見積もりは、少し低めにしておく 車のシートベルトと同じです。事故が起きると思って乗る人はいないけれど、万が一のために必ずつける。お金も同じ考え方で守るのです。 「余裕なんてもったいない」と思うかもしれませんが、余裕があるからこそ、大暴落が来ても投資をやめずに続けられる。つまり余裕は、ポイント2の複利を最後まで働かせるための「保険」でもあるのです。 ポイント8:完璧な正解より「続けられる方法」を選ぶ 最後は、著者のいちばん現実的なアドバイスです。 数学的にいちばん正しい方法があっても、途中でやめてしまったら意味がない。それより、多少ゆるくても「自分が安心して続けられる方法」のほうが、結果的にうまくいく――著者はこれを「合理的(rational)であるより、理にかなっている(reasonable)ほうがいい」と表現します。 ダイエットに例えるとわかりやすいです。栄養学的に完璧でも味気ない食事メニューは、たいてい三日坊主で終わります。それより、少しゆるくても続けられるメニューのほうが、1年後には確実にやせている。資産づくりもまったく同じです。 たとえば、理論上いちばん効率的な投資配分でも、暴落のたびに不安で眠れなくなって売ってしまうなら、その人には向いていません。それより、現金を多めに残した「ゆるい配分」で、どんな相場でも淡々と積み立てを続けられるほうが、長い目で見れば資産は育ちます。 ...
そろばんの日──週6回の教室と、3級でやめる約束|昭和の今日は何があった日?(8月8日)
8月8日は「そろばんの日」です。 由来は単純で、そろばんを弾くときの「パチパチ」という音を「8(パチ)」「8(パチ)」と読ませた語呂合わせ。制定したのは全国珠算教育連盟で、昭和43年(1968年)のことでした。私が生まれる前の年です。 語呂合わせの記念日は世の中に山ほどあって、たいていは商品を売るために後からつくられたものです。でもこの「そろばんの日」は、少し事情が違う気がします。昭和43年に、そろばんを教える人たちが自分たちの手で記念日を決めた。それはまだ、そろばんが日本中でパチパチと鳴っていた時代の話だからです。 そして私も、その音の中にいた一人でした。 みんなが通っていたから、私も通った 私がそろばん教室に通いはじめたのは、小学校3年生のときです。昭和53年(1978年)。 きっかけは、たいそうな話ではありません。友達の多くが通っていたから。ただそれだけです。 場所は、通っていた小学校の裏にありました。学校が終わって、いったん家に帰ってランドセルを置いて、また学校の方へ戻っていく。あの距離感が、そろばん教室という習い事の性格をよく表していたと思います。ピアノやバレエは「ちょっといいところの子」が通うもの、という空気がありましたが、そろばんは違いました。町の子がふつうに通う場所でした。 だから「習い事を始める」という決断めいたものは、正直あまりなかったように思います。放課後に友達が向かう場所がひとつ増えて、そこに自分もいた。それだけのことでした。誘われたというより、行かないほうが不自然だったのかもしれません。 親が通わせた理由もはっきりしていたはずです。当時のそろばんは、まだ「役に立つ技術」でした。商店の帳場でも会社の経理でも、そろばんを弾ける人は重宝された。習わせておいて損はない、という実感が親の世代にはあったのだと思います。 週に6回、休みは日曜と祭日だけ そして、ここからが今思い返すとすごいところです。 私が通っていたそろばん教室は、週に6回ありました。日曜日と祭日だけがお休み。つまり月曜から土曜まで、毎日です。 15時から50分の授業。終わると10分で次のクラスと入れ替え。16時からまた50分授業をやって、また10分で次のクラスと入れ替え。工場のラインみたいに、夕方の教室が回転していくわけです。そして級が上がっていくにつれて、遅い時間のクラスへと昇格していきました。低学年で下の級のうちは早い時間。上に行くほど遅い時間。時間割そのものが実力の順番になっていて、遅いクラスに移ることが子どもにとっての勲章でした。 授業が始まると、まず準備体操のように「読み上げ算」が始まります。「ご破算で願いましては」という決まり文句。あの合図で全員が一斉に指で珠を払い、盤面をゼロに戻す。それから先生が数字を読み上げて、生徒たちがパチパチはじいていく。読み上げのテンポは容赦なく、一度どこかで詰まったらもう追いつけません。 厳しい先生でしたから、教室内には緊張感がありました。おしゃべりなど、とてもできる雰囲気ではありません。読み上げの声と、珠が弾かれる音だけが部屋を満たしている。あの音の密度は、いま思い出しても独特です。 そろばんという習い事が全国的にどれだけ当たり前だったかは、こんなところにも表れています。昭和35年(1960年)から1990年代半ばまで、NHKラジオ第2放送では『そろばん教室』という番組がずっと放送されていました。昭和30年(1955年)には全国の高校生がそろばんの技を競う「全国高校珠算競技大会」も始まっている。通称、そろばん甲子園です。学校の裏の教室でパチパチやっていたあの時間は、日本中の子どもが同じようにやっていた時間でもありました。 毎日毎日、あの50分がありました。夏休みも、当然のようにありました。 「3級を取ったらやめていい」 私には、親との約束がありました。3級を取ったら、そろばんはやめていい。 そして6年生になってすぐ、私は3級に合格しました。約束通り、そろばんをやめることができた。そこからは野球に全力投球です。3年間ほぼ毎日通った教室から、私は野球のグラウンドへ移っていきました。 なぜ3級だったのか。当時から、珠算検定は3級以上が「履歴書に書けるライン」とされていました。親としては、そのくらいまでは持たせてやりたかったのだと思います。子どもの側からすれば、3級はゴールというより出口でした。ここまで行けば解放される、という一点を目指して珠を弾いていた。 いま考えると、少し不思議な話でもあります。やめるために頑張る。それでも小学校3年生から6年生までの3年間、ほぼ毎日そろばんを弾き続けたわけですから、目的がどうであれ、手は動き続けていたことになります。 正直に書いておくと、暗算は苦手でした。そろばんを目の前に置いて指を動かすぶんには何とかなるのに、頭の中に盤面を思い浮かべて計算する、あれがどうにも身につかなかった。同じ教室に、暗算がとんでもなく速い子がいたのを覚えています。あの差は、努力の量では埋まらないのだと子どもながらに感じていました。 そろばんの日の4年後、「答え一発」がやってきた ところで、そろばんの日が制定された4年後。カレンダーのほとんど同じ場所で、そろばんの立場を根本から揺さぶる製品が世に出ています。 昭和47年(1972年)8月3日、カシオ計算機が「カシオミニ」を発売しました。価格は1万2800円。それまでの電卓が7万円も8万円もしたことを考えると、破格でした。大きさも従来の4分の1。「答え一発、カシオミニ」というCMのフレーズをご記憶の方も多いでしょう。発売から10か月で100万台を超える大ヒットになりました。 8月8日にそろばんの日が決まり、その4年後の8月3日に、電卓が一家に一台の時代の扉を開けた。たった5日違いの、しかし決定的にすれ違った二つの出来事です。 カシオミニは発売から3年ほどで累計1000万台を売ったといわれます。当時の日本の人口を考えれば、10人に1人が手にした計算になる。私が生まれてまだ3歳のころに、日本の家庭は静かに、しかし決定的に「答えを一発で出す」側へ移りはじめていたわけです。 それでも、私がそろばん教室に通いはじめた昭和53年(1978年)、あの教室は週6日開いていて、夕方になれば子どもが集まってきました。電卓はもう珍しくもなかったのに、誰も「そろばんはもういらない」とは言わなかった。いま振り返れば、あれは坂を下りはじめた時代の、まだ日がよく当たっている斜面だったのだと思います。日が当たっているうちは、下り坂であることに誰も気づかないものです。 体にしみ込んだもの 正直、そろばんの技術は残っていません。 しかし当時そろばんを毎日毎日訓練したことの成果は、具体的に「これだ!」と示すことは出来ないのですが、私のカラダにしみ込んだ「そろばん」は確実にその後の人生に役立ってくれたと思います。 計算が速くなったとか、そういう分かりやすい話ではないのです。毎日決まった時間に教室へ行くこと。50分間、黙って手を動かし続けること。級というはっきりした目標に向かって、うまくいかない日も積み重ねること。そういうものが、たぶん形を変えて残っている。 そしてなんと、三男と四男が令和のこの時代に「そろばん教室」に通いました。四男は現在進行形です。2人は通い始めて明らかに良い効果が表れました。計算に対する苦手意識がなくなり、少しだけ賢くなったような気がします(笑)。 これは、うちだけの話ではないようです。そろばんは2000年代の半ばあたりから見直されはじめていて、教室に通う子どもは再び増える傾向にあると言われています。計算そのものは機械がやってくれる時代だからこそ、集中して数字と向き合う訓練の価値が、かえって浮かび上がってきたのかもしれません。 ただ、うちの子たちの教室が週6回でないことだけは確かです。あの回転寿司みたいな時間割は、たぶん昭和の教室にしかなかった。 わが家では、四男がいまも教室に通っています。そろばんは学校で買うものと思っていましたが、いまは家にもう一台あると練習がぐっと楽になります。23桁・四つ珠、ケース付き。私が昭和53年に抱えて歩いていたものと、形はほとんど変わっていません。 雲州堂 そろばんパック 23桁 ケース付き(サクラクレパス)学童用の定番。23桁・四つ珠でケース付き、本体178gと軽い。そろばん教室の指定品としてもよく使われる形です Amazonで見る › 電卓どころか、スマホが計算も翻訳もやってくれる時代です。それでもそろばん教室は残っていて、うちの子が通っている。昭和43年に「そろばんの日」を決めた人たちは、まさか半世紀以上あとの世界でこうなっているとは思わなかったでしょう。 けれど、あの人たちが守ろうとしたのは、たぶん計算の道具そのものではなかったのだと思います。あの、毎日決まった時間に子どもが集まってきて黙って手を動かす、教室というかたちのほうだった。 パチパチという乾いた木の音は、まだ鳴りやんでいません。 みなさんは、そろばんを習っていましたか。何級まで進みましたか。そして、やめたときのことを覚えているでしょうか。 「技術は残っていない」と書きましたが、正直なところ、もう一度あの音を鳴らしてみたい気持ちはあります。大人がゼロから、あるいは40年ぶりに握り直すための一冊も出ていました。1日10分。子どもと並んで弾くには、ちょうどいい分量かもしれません。 いしど式で簡単 大人のそろばんドリル 1日10分で計算力・集中力を活性化石戸珠算学園/メイツ出版。珠の置き方から検定レベルの練習まで、大人が独習できるように組まれたドリル。子どもの教室の宿題につきあう親にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...
【昭和の今日は何があった日?】8月7日──同じ日付を、三度くぐった夏
今日は8月7日。暦の上では立秋を迎える頃で、8と7を「ハ・ナ・ビ」と読む語呂から「おもちゃ花火の日」でもあります。夏のいちばん濃いところに刺さっている、そんな日付です。 この日付を、私は昭和のあいだに何度もくぐってきました。ただ、くぐるたびに私の立っている場所は違っていました。 小学2年の夏。中学2年の夏。高校1年の夏。 同じ8月7日に、世の中では別々の大きな出来事が起きていました。そして私は、そのどれとも関係のないところで、その日を過ごしていたのです。 昭和52年8月7日──私は、区営プールにいた 昭和52年(1977年)8月6日の未明から、北海道の有珠山で有感地震が続発しはじめました。午前3時頃には、山のふもとで人がはっきり感じるほどの揺れになっていたといいます。 そして翌7日の午前9時12分。有珠山の山頂火口原から、真っ白な噴煙が突き上がりました。噴煙はおよそ1時間後には高さ12,000メートルに達したと記録されています。 昭和新山が生まれてから、32年ぶりの噴火でした。噴火は8月14日の未明まで断続的に続き、火山灰は北海道の広い範囲に降り積もりました。前日からの地震で住民が避難していたため、この日の噴火そのものによる人的被害は出ていません。 そのころ、私は8歳。小学2年生の夏休みでした。 あの夏、私はほぼ毎日、午前中を区営プールで過ごしていました。友達と連れ立って出かけていって、水から上がっては入り、また上がる。夏休みの午前中というのは、そういう時間の使い方をするものだと思っていました。 午前9時12分。日本の北の端で山が噴き上がったその時刻、私はたぶん、プールへ向かう途中か、着いたばかりだったはずです。塩素のにおいと、コンクリートの熱と、水面の照り返し。葛飾の8歳にとって、その日の世界はそれで全部でした。 北海道の空が灰色になっていることを、私は知りません。 そもそも当時の私にとって、北海道は地図の上にしかない場所でした。父は仕事の休みがほとんどなく、家族で泊まりがけの旅行に出たことは一度もありません。車もありませんでした。テレビの中の噴煙は、月のクレーターの映像と同じくらい遠いところの出来事です。 有珠山という山は、20数年から50年ほどの間隔で噴火を繰り返し、しかも噴火の前には必ず前兆の地震が起きる。そのため地元では「ウソをつかない山」と呼ばれています。前の活動は昭和18年から20年にかけてで、このとき麦畑が盛り上がって昭和新山が生まれました。32年たって、山はまた約束どおりに動いたわけです。 記録を読んでいて印象に残ったのは、7日の噴火のとき、洞爺湖を訪れていた多くの観光客が立ちのぼる噴煙に見とれ、それを背にして写真を撮っていたという一節でした。恐怖よりも先に、まず見とれてしまう。人間というのは、そういうものなのかもしれません。 昭和58年8月7日──私は、11時30分に家を出た それから6年後。昭和58年(1983年)8月7日、フィンランドのヘルシンキで、第1回世界陸上競技選手権大会が開幕しました。 オリンピックとは別に、陸上競技だけの世界一決定戦を開く。その第1回です。153の国と地域から1,355人が集まり、41種目が争われました。アメリカのカール・ルイスが100メートル、走幅跳、リレーで三つの金メダルを持っていき、男子4×100メートルリレーと女子400メートルでは世界新記録が生まれています。 日本からは監督以下22名(男子16名、女子6名)が派遣されました。結果は、入賞者ゼロ。8位以内に一人も入れなかった。当時の日本陸上と世界の距離は、それくらい離れていました。 ちなみに、この大会をテレビ中継したのはテレビ朝日系列でした。『世界陸上』といえば日本テレビ、そしてTBSという印象が強いのですが、第1回だけは別の局だったのです。 そのころ、私は14歳。中学2年生です。 この夏、3年生の先輩たちが引退して、新チームが始まったばかりでした。野球部の練習はほぼ毎日。11時30分に家を出て、練習が終わって帰り着くと19時頃になっている。そういう夏でした。 家を出るのが11時30分というのは、今から思えば妙な時間です。午前中がまるまる残っていて、それでいて何もできない。ヘルシンキと日本には6時間の時差がありますから、開幕日の競技が動いていたのは日本の夕方から夜にかけて。私が土のグラウンドにいた時間と、その中継が流れていた時間は、きれいにすれ違っています。 それに、8月上旬の日本でスポーツといえば、やはり甲子園でした。世の中の目は高校野球のほうを向いていて、その脇でフィンランドの競技場に世界中の選手が集まっていることなど、中学2年の野球部員の耳には届いていません。 世界最高峰の陸上大会が始まったその日、私は葛飾で、白球を追いかけていました。 昭和60年8月7日──私は、スタンドにいた さらに2年後。昭和60年(1985年)8月7日、宇宙開発事業団(現在のJAXA)が、日本人として初めての宇宙飛行士3人を発表しました。 北海道大学工学部助教授の毛利衛さん、慶応大学医学部助手で心臓外科医の内藤千秋さん(結婚後の姓は向井)、NASAの研究員だった土井隆雄さん。500人を超える応募者から選ばれた3人は、いずれも30代でした。 スペースシャトルに乗って宇宙で実験をする。当時の予定では、飛行は昭和63年の初め頃とされていました。 募集がかかったのは昭和58年12月。ちょうど、第1回の世界陸上が終わって4か月ほどあとのことです。応募は500人を超え、そこから一年半以上をかけて絞り込まれた結果が、この日の発表でした。 そのころ、私は16歳。高校1年生です。 その夏の東東京大会を、私はスタンドから応援していました。1年生ですから、当然といえば当然です。そして3年生が引退して新チームが始まった、その矢先。私は右足の甲を骨折しました。 新チームの秋の大会に出ることは、絶望的になりました。 野球は、走れないと何もできません。素振りはできても、守れないし、走れない。あの夏、私は松葉杖をついていました。両手がふさがっているというのは、思っていた以上に不便なものです。グラブも持てない。ボールも拾えない。 始まったばかりのチームに自分の場所がない。しかも、走れない。悔しい夏でした。あの年の夏の記憶は、その悔しさとセットになっています。 ただ、後から知ったことがあります。 選ばれた3人も、そこからずいぶん長く待たされました。昭和61年1月にチャレンジャー号の事故が起き、スペースシャトルの打ち上げそのものが止まってしまったのです。毛利さんが実際にエンデバーで宇宙へ上がったのは、平成4年(1992年)9月。選ばれた日から、7年が過ぎていました。 向井さんが飛んだのは平成6年、土井さんは平成9年。土井さんはこのとき、日本人として初めて宇宙船の外に出ています。三人とも、選ばれた日から10年前後を待っていることになります。 選ばれた人も待つ。選ばれなかった人も待つ。待っている時間の長さだけで言えば、案外そう変わらないのかもしれません。もっとも16歳の私は、そんなことは考えもしませんでしたが。 あの夏、松葉杖の私にはできないことばかりでした。それでも走れる人にとっては、8月7日はいまでも花火の日です。「ハ・ナ・ビ」の語呂に合わせて、庭先やベランダで小さく火をつける。派手な打ち上げ花火より、こちらのほうがよほど昭和の夏の記憶に近いように思います。 花火屋がおススメする手持ち花火400本セット(線香花火入り・キャンドル付)安全検査合格品。取り出しやすく、線香花火まで入って400本。子どもや孫と一緒に、庭先やキャンプで。最後の一本は、やっぱり線香花火で締めたい Amazonで見る › おわりに 有珠山は、平成12年(2000年)にも噴火しました。このときも前兆の地震をもとにした事前の避難が間に合い、人的被害はありませんでした。ウソをつかない山は、平成になっても約束を守ったわけです。 ...
「1億円ためないと自由になれない」って本当?──『「パラレルインカム」のはじめ方』をやさしく解説!
「FIRE(経済的自立と早期リタイア)」という言葉を聞いて、こう思ったことはありませんか? 「1億円ためて仕事を辞める? そんなの、自分には無理だ」 たしかに、よくあるFIRE本のゴールはかなり遠い場所にあります。でも、この『「パラレルインカム」のはじめ方』が教えてくれるのは、「仕事は辞めない。それでも自由になる」という第三の道です。表紙にも「年収300万円からできる進化版FIRE」と書かれています。 今回は、この本の考え方を、むずかしい言葉をできるだけ使わずに解説します。投資の知識がゼロでも、最後まで読めば「自分は次に何をすればいいのか」がはっきりするはずです。 著者はどんな人? 著者は泉正人(いずみ・まさと)さん。累計64万人が学んだといわれるマネースクール「ファイナンシャルアカデミー」の代表です。監修も同アカデミーが担当しています。 自分自身が会社を立ち上げ、気づけば「パラレルインカム」を実践していた——という体験がベースになっているので、机上の空論ではなく、実際に歩いた道の話として読めるのが特徴です。 ポイント1:「お金のなる木」を2本持つ パラレルインカムとは、直訳すると「収入の複線化」。会社の給料という1本の線と並べて、もう1本の収入の線を通す、という意味です。 大事なのは、その2本目が「アルバイト」ではないということ。 労働所得(働いて得るお金) + 資産所得(働かなくても入ってくるお金) これがパラレルインカムの正体です。本書では、これを「お金のなる木を2本持つ」と表現しています。1本目は自分で水をやり続ける木、2本目は勝手に実をつけてくれる木、というイメージです。 副業をもう1つ増やすのは、水やりする木を増やすのと同じ。収入は増えても、時間はどんどん減っていきます。目指すのは、そこではありません。「休んでも止まらない流れ」を1本つくることが、この本の出発点です。 ポイント2:FIREとのいちばん大きな違いは「仕事を辞めないこと」 FIREは「早期リタイア」、つまり仕事を辞めるのがゴールです。でも著者は、そこに疑問を投げかけます。 辞めたあと、時間を持て余してしまう人が意外と多いからです。 パラレルインカムでは、仕事は続けます。ただし、お金のためだけにイヤイヤ続ける仕事ではなく、「好きだからやる仕事」に変えていく。ここが決定的な違いです。 学校でも会社でも、「やらされている作業」と「自分で選んだ活動」では、同じ時間でも疲れ方がまるで違いますよね。パラレルインカムが目指すのは、後者の状態です。 さらに、仕事を続けることには現実的なメリットもあります。収入の柱が2本あれば、片方が不調でも生活は崩れません。株価が下がった年も給料は入るし、病気や転職で働けない時期があっても資産所得が支えてくれる。辞めないという選択は、安全装置でもあるのです。 ポイント3:ゴールは「1億円」ではなく「生活費 < 資産所得」 この本のゴールラインは、とてもシンプルです。 毎月の生活費を、資産所得が上回ること たとえば生活費が月20万円なら、資産所得が月20万円をこえた瞬間、あなたは「働かなくても生きていける状態」になります。そこから先の労働は、生活のためではなく、やりたいからやる労働に変わります。 「1億円」という数字を目標にすると気が遠くなりますが、「月20万円」なら、まだ手が届きそうに感じませんか。ゴールの置き方を変えるだけで、道のりの見え方は変わります。 しかも、このゴールにはもう1つの近づき方があります。それは、生活費のほうを下げること。生活費が月30万円の人と月18万円の人では、必要な資産所得がまったく違います。支出を見直すことは、我慢ではなくゴールラインを自分のほうへ引き寄せる作業なのです。 ポイント4:順番をまちがえない「4つのステップ」 本書は、実現までの道のりを4つの段階に分けています。 労働所得を増やす 資産構築をする(増えた分をためて、元手をつくる) 資産所得をつくる(元手を働かせる) 仕事でも自己実現を達成する ここで大事なのは、順番を飛ばさないことです。 いきなりステップ3から始めようとする人は、とても多い。でも元手がない状態で資産所得だけを追いかけるのは、練習せずに試合に出るようなものです。まずは本業の収入を上げ、支出をコントロールして、種を確保する。地味ですが、ここが土台になります。 ポイント5:「お金の7か条」から学ぶ、日常の習慣 本書の第2章には、暮らしの中で効いてくる7つの心がまえがまとめられています。特に取り入れやすいのが、この2つです。 ① 欲しいものを買う前に、お金を迂回させる 給料が入ったら、使う前に一部を別の場所へ「迂回」させる。いわゆる先取り貯蓄です。残ったお金で暮らす仕組みにすれば、意志の強さに頼らなくてすみます。 ② 資産運用は「自転車の運転」と考える 自転車は、本を読んだだけでは乗れません。最初は転びます。でも一度乗れるようになれば、一生忘れない。運用も同じで、小さく始めて体で覚えるものだ、という考え方です。 7か条にはほかにも、「お金に働いてもらうことをポジティブにとらえる」「投資の本当のリスクを知り、コントロールする」といった項目が並びます。リスクはゼロにするものではなく、正体を知って手なずけるもの——この姿勢が本書全体を貫いています。 ポイント6:「失敗から学ぶ」より「成功から学ぶ」 「失敗は成功のもと」とよく言われますが、著者の考え方は少しちがいます。 失敗を避けるノウハウと、成功するノウハウは、別物だからです。 失敗をいくら分析しても、それは「やってはいけないこと」のリストが増えるだけ。実際にうまくいっている人のやり方を聞いて、まねをするほうがずっと近道だ、と本書は言います。 部活でも、ケガの原因を研究するより、うまい先輩のフォームを見よう見まねでコピーするほうが上達が早い——そんな感覚に近いかもしれません。ただし、まねる相手は自分が行きたい場所に実際にたどり着いた人を選ぶこと。SNSにあふれる成功談を見分ける目だけは、自分で育てる必要があります。 ポイント7:「FIREの5倍ラク」の根拠と、その注意点 本書のタイトルにもなっている「進化版FIRE」。著者はパラレルインカムを「FIREの5倍ラク」と表現します。 その根拠が、この対比です。 年400万円を得るために必要な元手 FIREの「4%ルール」 1億円 不動産の「20%ルール」 2,000万円 金額が5分の1になるから「5倍ラク」というわけです。本書が資産所得の手段として不動産投資をすすめているのは、この効率の良さが理由です。 ただし、ここは正直に書いておきます。この計算は、借入(ローン)を使うことが前提です。空室、修繕、災害、金利の上昇といったリスクもあり、株式のインデックス投資とくらべて、必要な知識と手間は明らかに多くなります。 「5倍ラク」は「5倍かんたん」ではない。この点については、記事の後半で、実際に賃貸経営をしている立場から詳しくお話しします。 ポイント8:最後に手に入るのは「5つの自由」 では、これだけの手間をかけて、何が手に入るのか。本書は5つを挙げています。 ...
【昭和の今日は何があった日?】8月6日──8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』
夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた 夏休みは、朝が遅い。 学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。 居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。 ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。 夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。 午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。 けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。 子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。 葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。 昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。 原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。 このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。 佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。 その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。 私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。 「24時間テレビで観た」という、私の記憶 さて、ここからが本題です。 8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。 アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。 細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。 それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。 これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。 そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。 調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった 念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。 この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。 問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。 つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。 私の記憶は、成り立ちませんでした。 では、私はどこであれを観たのか アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。 制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。 そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。 地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。 ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。 そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。 正直に書きます。もう、わかりません。 なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。 当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。 同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。 しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。 けれど、それだけではない気もしています。 実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。 だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。 そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。 そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。 私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。 令和の8月6日に いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。 だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。 昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。 もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。 みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。 あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。 はだしのゲン(全7巻セット)中公文庫コミック版中沢啓治。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始。作者自身の被爆体験をもとに描かれ、世代を超えて読み継がれてきた全7巻。文庫版でそろえやすい Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...